かちゃり。
本日の業務で出てきた疑問を同僚であり先輩でもある東北へと質問していた長野は、扉の開けられる音に顔を上げて。
「あー、もう腹が立つ!」
その姿の現れる前に部屋へ通った声に笑みをこぼした。
「おつかれさまです、上越先輩」
扉を開けて入ってきたのは、長野にとって一番身近で一番好きな相手。
たとえ苛立った様子で現れようと、数時間ぶりでしかなかろうと、近くで顔を合わせられることには嬉しさが先に立つ。
にこにこと隠しきれない喜びのまま声をかければ、そんな後輩の様子に上越はきょとんと不思議そうに目を瞬かせた。
「ああうん、おつかれさま?」
歓待の声にわずかに驚きは見せたものの疑問を呈するでもなく一度首をひねるだけにとどめた上越は、扉からまっすぐに歩みを進めると設えてあるソファへとどさりと腰をおろした。
疲れているのだろうか、その動きはどことなく重たげだ。それに両手を組んで伸びをしている彼のシャツは相変わらず上二つのボタンが止められていない。最近の気候は昼はまだしも朝夕の冷え込みが厳しい。寒くはないのだろうか、もしかして体調が悪いのではと考えてしまう長野だったが、その相手からふいに向けられた視線に、どきりと胸が音をたてた。
気付かれてしまっただろうか。
じっと無遠慮に見つめてしまっていたことに気付いて今更慌てるが、上越はそんな長野の様子をいぶかるでもなくただ手を挙げた。
「あ、長野、僕の引き出しの右上」
「はい?」
「爪切りあるから、取ってくれる?」
「はい!」
ソファにしどけなく座ったままの頼まれごとに、背筋をぴんと伸ばして長野は言われたとおり上越の机へと視線を向けた。きちんと整頓された机はどこか近付きがたい彼のようだ。こうして依頼でもされない限り触れることなどめったとない場所に緊張しながら手を伸ばそうとして、上げられた声に長野はびくりと肩をすくませた。
「いたっ……!」
「――なにがあった?」
いつの間に移動したのだろう。ソファに座る上越の前には先ほどまで長野の目の前にいたはずの東北の姿があった。
自分に向けられていたとすれば確実にひるんでしまっただろう、強い視線が上越へと向けられている。しかしそれに負けることなどなく、上越はきっ、と自分へ手荒な振る舞いに及んだ同僚を睨みつけていた。
その憤った表情でさえ美しい白皙に、先ほどは見えなかった一筋の赤をみつけて長野は瞠目した。
「この馬鹿力!」
自分の顎を掴んだ同僚の手をはずさせようとする上越だったが、その手が動くことはない。上越の頬に向けられた視線も。
「なにがあった」
「別に何もないよ!」
「何も?」
本当に?
繰り返される言葉と視線での問いかけに、やがて疲れたように上越は目を閉じて吐息をこぼした。
「爪がささくれだってたんだよ」
「……?」
「自分の爪がひっかかっただけ。別に何かあったわけでもないよ。間抜けだから言わせないで、わかったならこの手をどけて」
ぺしぺしと腕を叩かれて、東北は思い出したようにその手の力を緩めたようだった。
そっと離れていく手をちらりと見やった上越は掴まれていた顎をさすっている。
「痛そうだな」
「君が掴んだからだろ」
「すまん。いやその」
痛そうだといったのは別の場所だったと気付かないわけでもない上越は、正気を取り戻したらしい東北の視線を集める頬に指を滑らせた。
白い肌に赤は良く目立つ。
「頬はピリピリして気になる。本当、腹が立つ」
「消毒か絆創膏でも」
「そんな余計目立つようなことしない」
「しかし」
「ちょっと引っかけただけで深くもないんだから、すぐ治る」
「……そうか」
「それよりまた怪我しないように爪を切っておかないと。……君はどっちかっていえば深爪だよね」
むしろ痛いのではないかと思うほどきっちりと整えられた指先を上越が指摘すれば。
「……ああ」
言われて初めて気付いたかのように、東北は自分の手へと視線を移した。
そしてその目がふ、と和む。
「大事なものに傷をつけたくないしな」
「なんだよ、それ」
ふてくされた表情の相方の頭へと東北はいつものように手を伸ばす。今度は抵抗もせずにその手を甘受した上越の、さらりとした髪が東北の指からこぼれ落ちていく。
絡むことなくするりと落ちていくその感触が気持ちいいけれどなぜか寂しい。
それはどちらの感情だったろう。
片手に爪切りを持ったままの長野は、撫でられる猫のような先輩の姿に暖かい気持ちになると同時に上越の傷にも負けないぴりぴりとした感情を覚えていた。

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