その日。大宮駅の在来執務室に高崎はいた。
東日本旅客鉄道に籍を置く高崎線は、この日本の鉄道事業の中でも最古参と言っていい歴史を持っている。その意味では同じ在来線ですら彼と肩を並べられるものなどそう多くはなく、今同じ場所に働く職員などは高崎にしてみれば孫よりも幼い相手に過ぎない。その割にまったく驕ったところのない彼は、いつも通りに駅員と軽い挨拶を交わした後、誰もいない執務室へとやってきていた。それが2時間ほど前のこと。
本日の高崎の乗務は午前中だけで午後からは内勤で事務処理を行う予定となっており、それは狂うこともなく順当に高崎は自分の机に向かうことができていた。
幸い差し迫った締め切りの書類はない。あるのは目を通せば良いだけの連絡通知文や、簡単な報告書だけであり、事務作業がそう得意とは言えない高崎でもさして苦労することのないものばかりだった。むしろ、だからこそ早めに済ませておけと在来線のリーダーである京浜東北に言われての現状なのである。簡単に済むものとはいえ後回しにすればこういうものはどんどんたまっていくだけだ。そのうち本当に緊急に行わなければならない事務処理が生じてこういった物が忘れ去られ、相方に泣きついて仕事に追われる、といったパターンが今までに何度もあったことを踏まえての、実は半ば命令めいた本日の勤務だった。
それはさておき。高崎は判を押すだけの書類を見ながらも、視界に入るその人が動くたび、ピクリと肩を揺らしていた。別に自分の仕事に精を出していればいいだけだとわかっていても、気になるものは気になるのだ。
なぜよりによって、今日自分は大宮駅で内勤をすることを決めてしまったのだろう。上野でも籠原でも高崎でもよかった、今ここで書類整理をする必要性は全くなかったはずなのに、と。今更悔やんでも仕方のないことを思う。
前もって彼のスケジュールを調べるべきだったのか。いや、一在来の自分にそんな権限はないし、彼だって別にわざわざ自分を構うためにここに来たわけではないだろう…と思う。いや思いたい。少なくとも彼はここにきてからというもの、先に来ていた自分に最低限声をかけただけで、あとは書庫にあった古い記録を引っ張り出しては何やらメモをとっているだけである。ようするに彼の仕事に必要なことがあってここに来ただけであり、自分が今ここにいることとは関係ないのだ。
ぐるぐると。考え込む高崎は、時折その様子をちらりとうかがい見ては笑みを浮かべるその人の様子には気づいていなかった。そんな余裕のなさが彼を楽しませているのだとは、もちろん知っていても直せるものでもないのだが。
すい、とパーティションの奥に向かう彼の深緑の背中を見送り、とりあえずは自分の仕事を終わらせることが先決だと、ようやく書類へ神経を向けようとした高崎だったが、やはりそれは叶うことはなかった。
背後から椅子ごと抱きついてきた人物がいたからだ。
「どうしたの、高崎」
「――!」
急に肩にかけられた重みに、高崎は声にならない悲鳴を上げた。
きん、と耳鳴りのような音が頭に響いて、身体が一瞬にして強張る。触れたものからしてみれば、マネキンのようだと思うほどに。
そんながちがちに硬直した高崎に、自分の体重をかけ続けている人物は抱きついた腕もそのままにのんびりとした声をかけてくる。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
不満そうな声が聞こえていても、当の高崎からすれば、耳から出てきたのではないかと思えるほど心臓はいまだばくばくと早い鼓動を打って声も出せない。いよいよ息苦しさまで感じて胸を抑える高崎に、背後からひょこりと、彼は相方の前へと顔をのぞかせた。
ああ、ここは上官だけでない。自分の相方も通る駅なのだ。
そんなことを今更ながらに思い出しながら、高鳴る鼓動を抑えようと、高崎はゆっくりと息をはいて呼吸を整えた。そしてじろりと己の相方を、宇都宮を見やった。
「……いきなり現れるからだろ」
「ちゃんと声をかけたけど?」
「え、ほんとか?」
「今抱きつきながら言ったでしょ」
「それは声をかけたとはいわねーよ!」
失礼だな、とでも言いたげな宇都宮の様子に謝りかけた高崎だったが、明らかに自分に非のない説明に思わず声を上げた。が、思ったよりも響いたそれにあわてて自分の口を押さえる。
「高崎?」
「……上官がいらっしゃるんだよ」
「ああ、そうみたいだね」
さっき、駅員が話しているのを聞いた。とにこやかに微笑む宇都宮からはその感情を読みとることができない。微妙な空気を読むなどといった高度な技を持っている高崎ではないが、それでも相方のその笑みの裏に何か隠された感情があることにはすぐに気づいた。
何を考えているのかと訝しげに見つめていれば、見つめられた方も不思議そうに首をかしげた。
「何?」
「おまえの方こそ」
じっとお互い見つめあっても、どちらも何も言うことはない。こんなときよく知った間柄というのも便利なのか不便なのか。お互い折れることがないと早々にわかってしまう。
「まあ別にいいけどよ」
「そう。で、高崎は何してるの?」
「見りゃわかるだろ。今期の決算書のチェック。おまえも見たんだろ」
「あれね。まだやってなかったんだ」
「だから今やってるし! だいたい期限は月末だろ!」
「そうやって今までいくつ僕に手伝わせたっけ?」
「うっ……」
そうしていくつ借りが溜まっているのかは既に数えたくない域に達している。
その借りをどうやって返していくのかももはや考えたくないレベルであったりする。
それを思えば、本日の勤務を半ば命令とはいえ勧めてくれた京浜東北には感謝しなければならないかもしれない、と。ここにはいない首都圏在来線リーダーたるかの存在に心の中でこっそりと高崎は両手を合わせた。
「午後からやってるわりには進んでなさそうだけど、終わるの?」
「終わらせる!」
でないと、また借りが増えてしまう。そう思う高崎は、できない時にはやはり相方の手を借りてしまうことを前提としていることに、気づいていなかった。
逆にそれに気付いている宇都宮はこっそりと心の中で笑う。自分以外に助けを求めることを考えもしない、その事実に満足して。
しかしそれにしても、と宇都宮は処理前と処理済みの書類の山を見比べた。
「いくら高崎でももうちょっと進めてるかとも思ったんだけど」
「俺でもってどういう意味だよ」
「そのままに決まってるじゃない」
「……」
「で、まさか上官がいらっしゃるから気になって仕事が手につかないとか言うんじゃないだろうね?」
どうしてこいつはこうも言いづらいことをぽんぽんと口にするのか、と。その表情こそが肯定であるとは気付かないまま、高崎はぐっと歯をかみしめて宇都宮を睨みつけた。
「あれ、本当に?」
「だって、上越上官がいるんだぞ」
「たしかに何してくるかわからないけど仕事の邪魔はしないでしょ」
宇都宮にとってはいけすかないし業務以外の点では十分に警戒しなければならない相手だが、そういう意味においては信頼できる上司である。
宇都宮の直属の上官とそろって、仕事に関することには決して手を抜かないし、その仕事ぶりは彼らにとって当然のこととはいえ宇都宮でさえ称賛に値するものがあった。だからこそ、無茶と言われる在来線の振り替えも頼みに行くことができるのだ。たとえ宇都宮の真意を知っていても、そのプライドを曲げても、彼らはお客様への利便性を第一とすることを知っているから。
そんな宇都宮の言葉をじっと聞いていた高崎だったが、自分が恐れているのはそういうことではないと首を振った。
「じゃあなに?」
「あんなに機嫌良さそうなんだぞ?」
「……なるほど」
機嫌がよくて何が悪いのか。かの上官を知らない者ならそう疑問を持つだろうが、彼に振り回されることの多い高崎に宇都宮はおおよそ彼の言い分を理解した。
「絶対何か計画しているに違いないって! いやもしかしたらもう何かしてるのかも」
「もう何かされてるんなら怯えるんじゃなくて前向きに対処したら?」
「おまえ他人事だと思ってるだろ!」
うっすらと涙目で詰め寄る高崎をかわいいなあ、と思いながら、さてどう宥めようかと考え始めた宇都宮だったが、その行動を起こす前に高崎はその動きをピタリと止めた。
何事かと思っていれば、その場によくとおる凛とした声が響いた。
「なんかにぎやかだと思ったら」
ひょこっと、パーティションの奥からその両手になんとか抱えることができるといった大量の冊子を抱えた上越が顔を出して、高崎へと笑いかけた。
「何を話しているのかな、高崎」
「いえ、はい! あの、えっと」
「今期決算についてですよ、上越上官。おつかれさまです」
言葉に詰まる高崎を制して、宇都宮は彼から手を放しその横に立った。
声を掛けられて初めて気付いた、というようにゆっくりと上越は宇都宮へと視線を向けた。デスクに冊子を置いて、二人の部下へとまた視線を戻す上越は宇都宮にはいつも通りの姿に見える。
そう思い、椅子に硬直したまま座っている相方にこっそりとささやく。
「なんであれを楽しそうだと?」
「見るからに楽しそうだろ!」
小声で叫ぶという器用なまねをした高崎の上官センサーは不思議な威力を発揮しているらしい。いや、危険を訴える本能が、か。
宇都宮にはどうしたってそうは見えないものの、高崎が言うからにはそうなんだろう。彼の部下であり、その被害を一番に受けている高崎の言うことなのだから疑う余地はない。
では本当に何をたくらんでいるのか。
怯える高崎から一歩前に進み出た宇都宮は、冊子を置いた机に軽く体重を掛けながら腕を組んで立っている上越へと話しかけた。
「大変ご機嫌が麗しいようですね」
「そうだね。ちょうど今下降したところだけど」
にっこりと笑いあう二人の間には冷たいものしかない。それを察知して胃を抑えた高崎を視界の端にとどめながら、宇都宮はつい、と冊子に目を向けた。
「その資料と関係あることなんですか?」
上越が手にしている資料は、それほど重要なものではなかったはずだ。上官の本日の業務内容など知るはずもないが、一人で気軽に来ている時点でさして急ぎでも重要な案件を抱えているとも思えなかった。しかしそうであれば機嫌と仕事内容は一致するものなのか。回りくどい言い方がこの相手に通用するとも思えないが、率直に尋ねて答えてくれることもないだろう。では、どのような搦め手を使おうかと思案しながらひとまず口火を切れば、上越はからかうような笑みを見せた。
「なあに? 私のことが知りたいのかな?」
「高崎の心の平穏のために、教えていただけるならば幸いですが」
ふうん、と納得したのかそうでないのか、気のないそぶりで頷いた上越は、ふと思いついたというようににやりとチェシャ猫のような笑みを浮かべた。
「私の機嫌が良いのだとしたらどうしてだと思う?」
「北陸新幹線の建設費問題が頓挫しましたか?」
ばかうつのみや! と聞こえた気がするが聞かなかったふりをしてあげよう。後でお仕置きだ。
その宇都宮の心の声が聞こえたわけではないだろうが顔を青ざめさせて黙り込んだ高崎の前で、上越は目を眇めて宇都宮を見やった。
「……ほんっと、君はいい性格だね」
「上官ほどではないかと思いますが。お褒めに与り光栄ですよ」
「高崎の10分の1でもかわいげをもつといいのに」
本当にそう思うのかというようなことをため息とともに言い放つ。
自分にかわいげがあったところで不気味なだけだろう。と宇都宮は思うのだが。しかし、それはそれとして今の言葉は別の意味で聞き捨てならなかった。
「おや、上官は高崎をかわいいとお思いで」
「当然でしょう。僕の部下だよ」
「ではその部下を弄るのもほどほどにして下さればありがたいですね」
「もちろん。かわいがっているだけだし?」
「そうですか。こちらの基準に相当するのであればそれも結構ですが」
「じゃあ遠慮なくこれからもかわいがるとするよ」
「上官にも遠慮なんて言葉があったんですね。一般的な感性をお持ちのことと期待していますよ」
「あ、あの!」
ふふふ、と表面だけは穏やかに笑う二人に、いい加減耐えられなくなった高崎が声を張り上げる。むしろ今まで良くもったというべきか。それともよく今声を上げる勇気を持てたというべきなのか。
しかし、二人の間に割って入ったもののその後の言葉が続かずにおろおろと視線をさまよわせる高崎に、上越は小さく首をかしげた。
「高崎、僕そんな機嫌良く見えた?」
「え、あの、はい」
それに否やはない高崎は素直に頷く。何しろここに入ってきたときから、高崎には上越から隠しきれない嬉しさがにじみ出ているように見えていたのだ。まるで遠足前の子どものようなそれに驚きながら、そして怯えながらも、なんだか微笑ましいと思ったのは高崎だけの秘密だ。
高崎の答えにわずかに目を見開いた上越は、しかしすぐさまそんな表情を消して、自分を恐る恐るといった体で窺う高崎を宥めるように笑いかけた。
「そうか。じゃあ仕方ないな、教えてあげよう」
「あ。ありがとうございます」
礼を言うべきところなのかはわからないまま、高崎は小さく頭を下げる。
しかし、ついでその頭へと降ってきた言葉に、ぽかんと口を開いた。
「この後デートなんだ」
「……でーと?」
おもわず、ひらがなで繰り返した高崎はその言葉の意味が一瞬分からなかった。
デートってあれだよな? こう、カップルがどこか遊びに行くような。って上官恋人いたのか。いや、いないわけがないのかもしれないけど。上官に憧れている奴って多いし、俺も何度か手紙の配達頼まれたこともあるし。ただ今までそんなのでいい返事貰った奴って見たことないけど。じゃなくて、え、機嫌がいいってことは上官が喜んでるってことで、つまりデートを楽しみにしてるってことで。どこ行くんだろう、じゃなくて誰とってそりゃ恋人となんだろうけど、じゃあ俺にかまってる場合じゃないし、そんな相手とこれからデートなら楽しそうなのもわかるけど。上官がでーと?
予想もしていなかった言葉を聞かされてぐるぐると考えるだけ無駄なことに思考を費やしている片割れを横目に、宇都宮はその様子を明らかに楽しんでみている上官へと問いかけた。
「どなたとなのかお聞きしても?」
「いやだなあ。嫌いな人とそんなことするほど私は暇でも酔狂でもないつもりだよ」
たしかに。彼の性格からいって自分の意に染まないことをわざわざするようなことはないだろう。
汗をかくのは嫌い、と自分と自分の業務に関係ない面倒事は全て誰かに押し付けるという噂を聞いたこともある。
そしてそんな風に言うからにはおそらくその相手というのは彼にとって嫌いではない人、ではない。
好きな人、だ。
彼にそんな風に思える人がいたのか、とそちらに宇都宮は軽く驚いた。そういったことに興味はない人だと思っていたのだ。
良くも悪くも己、というものを路線としてとらえることが多く、そのプライドはさすが高速鉄道の一員であると宇都宮ですら皮肉でなく言ってしまうほどに高い。そうあるために生まれてきた人なのだと素直に受け入れられる、上越はそんな存在であった。
「すみません。上官にそのような相手がいらっしゃったとは存じ上げませんで」
「そうだろうね、まあきっとそんな長いことではないだろうし」
「はい?」
「当然でしょ? こういうのってお互いの気持ちがなきゃ続かないからね。だから内緒ね?」
しぃっと、子どもにするように自分の口元に人差し指を当てて、上越は笑った。
それはからかうようなものでなく、かといって喜びにあふれたものでもなく。でも冷めているといったものでもない。どう取っていいのか分からない不思議な笑みだった。
その笑みを目に留めながらも、宇都宮は不思議に感じた。自分にそんな約束など通じるはずもないことはこの上官がわかっていないはずもない。では最初からこの話は彼の中でさして重要なものでもないのだろう。本当に重要なことなら自分たちに話すことなどないはずだ。しかし、デートをするということは事実らしい。その相手がどういう意味であれ、彼が少なからず好意を持つ人物だということも。ならば、その続かない気持ちというのは誰にかかっているのだろう。上越自身かその相手か、それともその両方なのか。それを自分たちに話したということは、ただの気まぐれなのだろうか。
しかし、それにしては――。
「あ、高崎。それ終わったらこれ直してくれる? ちょっと見難いから整理してるんだけどさ」
「yes、上官」
積み上げられた冊子を指されて、高崎は頷いた。上官の業務のサポートというならば、拒否などするはずがない。
頷いた高崎を満足げに見やって上越はまたパーティションの奥へと向かった。まだまだ書類をひっくり返すつもりらしい。
「……あれ片付けるの大変そうだね」
「う。これ早めに片づければ何とか」
業務時間をそれほどすぎなくて済む、はず。と小さい声でつなげる高崎は自分の処理能力をよくわかっている。
「えっと」
ちらりと相方を見上げれば、宇都宮は仕方がないと小さくため息をついていた。
「まあ。こっちの書類は手伝ってあげるよ。何か抜けてたら困るからって京浜東北に頼まれてたしね」
なぜ宇都宮がここにきているのかを今更ながらに説明されて、高崎はほっと安堵の表情を浮かべた。
そして、ちらりとパーティションの方へ視線を向ける。
確かに怯える気持ちもまだ残っているけれど、いつになく上機嫌な上官の様子が微笑ましく、なんだか自分も嬉しくなって自然と顔がほころんだ。
「まあ、上官が楽しそうならいいか」
「……本当にきみってこりないよね」
「? なにがだ?」
意味がわからないと聞き返しても、もう君はそれでいいよとしか宇都宮は答えない。
あ、ともうひとつ宇都宮に言っておこうとしたことを思い出す。さっき上官が言っていたが。
「おまえにも可愛げあると思うぞ」
「なんで君そういうところだけしっかり覚えてるんだい?」
呆れたような宇都宮の言い分もやっぱりわからない高崎だった。

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