何も特別なことはない日だった。
強いて言うならば、天候は晴れ。風は肌に心地よい程度で運行に問題はなく、絶好の行楽日和といったところか。急ぎの案件も頭を悩ませるような状況もなく、期限にまだ余裕のある書類を広げながら、上越はふわ、とあくびをした。
穏やかな陽気は眠気を誘う。昨日もあれほどに眠ったというのにまだ身体は睡眠を欲していた。それとも実はよく休めていなかったのだろうか。たしかに心当たりがないことはないのだが。
うーん、と腕を背後に回し大きく背筋を伸ばして深呼吸する。どうやらなけなしの集中力は切れてしまったらしい。
たるんでいる! と普段なら怒りそうな同僚がすぐ隣にいることをふと思い出したが、しかし上越を叱責する声はどこからも上がらなかった。彼は何か作業中だっただろうか。不思議に思いながら顔を上げれば、高速鉄道の長たる彼は何やら一点をじっと見つめていた。その視線の先を追って、上越は目を瞬かせた。
そんな上越に気づいたわけではないだろうが、東海道は視線はそのままに上越へと声をかけてきた。
「おい、上越」
「何?」
「何かおかしくないか?」
「東海道の頭が?」
思わず上越の口を衝いて出た言葉に、東海道はばっと振り返って上越を睨みつけた。
「違う! なんで私なのだ?!」
「いつも以上にその触角強調されてるかと思って」
ようするに寝癖がひどかったのだが、当の本人は気づいていなかったらしい。上越の指摘にようやく自分の状態に気づいたようで慌てて自分の髪を撫でつけているが、それは焼け石に水というものだった。
「濡らして絞ったタオルをレンジでチンして乗せておくといいよ」
「わかってる!」
いやわかっていないだろう。人が珍しく正しいアドバイスをしたというのに、結局東海道は顔を真っ赤にしたままぷいと横を向くだけだった。結局寝癖を直すのは諦めたらしい。もしくはこの後に来る誰かに直してもらうのか。
まあどうでもいいけど、と肘をついた手で顔を支えながら上越はぼんやりと東海道を眺めた。ある意味見ていて飽きないのだ、この王様は。集中力も切れたことだし、休んでいても何も言われないのならばとことん休んでやろう。
こほん、とひとつ咳をするとその王様はわずかに声を低めて、視線をまた先ほどまでの方向へと動かした。部屋の端にあるソファに座る、自分たちの同僚の方へ。
そうして、あれだ、と告げる。
「私のことはどうでもいい、東北だ」
その視線が向かう先はわかっていたから、上越はその言葉自体には驚かなかった。だがその意味は理解できない。東海道は何をそんなに気にかけているのだろう。
上越の無言の促しに、東海道はさらに声を低めて上越だけに聞こえるように囁いた。
「何か怒っているのか、あれは」
「は?」
「だから東北が」
「どうして」
「どうして?」
何を言われているのかわからなかったのはお互いのようで、同じ言葉を繰り返しあって鏡のように首をかしげた。
「どうしても何も見たままだが」
「いや。だって、あれが?」
東北が怒っているだと?
上越は視線をずらし、昔は己の双子の片割れとも呼ばれた同僚を垣間見る。
仏頂面だ。彼を知らない、いや知っている者のほとんどはそう答えるだろう。それが東海道には怒っているように見えたらしい。
しかし上越にはまったくそうは思えなかった。
「上越?」
いきなり立ち上がった上越に、思いもしなかった行動だったのだろう東海道が慌てたような声を上げた。しかしそれを顧みることもなく上越はすたすたと東北の傍へと寄っていった。
東北は資料に目を通していた。ちらりと見えたその一文から再来週に控えた会議のものだとわかる。数週間前より東北の頭を悩ませている案件だ。東海道はそれを知っているからこそ、余計に厳しい表情に見えたのだろうか。
不意に書類に射した陰に、東北が顔を上げる。その表情はおそらく東海道には険しいもののように見えるのだろう。しかし。
「ねえ」
何か用なのかと視線だけで問いかける東北にズバリと切り込めば、上越の視界の隅に入った東海道は目を丸くした。
「君さ、なに浮かれてるの」
上越が言ったのは、東海道の考えとは全く逆のことだったのだから。

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