ぽたん。
緑の上に光る朝露が、その重さに耐えきれない葉を揺らして地面に落ちる。
それは森の奥。木々の合間から光が差し込むその場所は、まるで美しい風景画のようだった。瑞々しい新緑の世界。地上から空を隠すかのように生き生きと広がる木々。そしてそこからこぼれおちる恵みの雫。薄靄の中に振り注ぐそれは、与えられたコートでは遮れずに体まで濡らしてしまうほどだ。だがそれを気にすることもなく少年は走っていた。
冷たい空気にはいた息は微かに白く色をつける。吸い込んだそれに胸がひんやりとする。しかし、走る少年の頬は興奮に染まっていた。
ずるりと、ぬかるむ地面に滑りそうになる足元。ここで転んでなるものかとぐっと力を入れて大地を踏みこむ。
今しかないのだ。少年はこの機会をずっと窺っていた。今日を逃してしまえば次に来るのは戴冠式の時になるだろう。そうではない。与えられた機会ではなくて、自分の意思で自分の足でその場所に行きたかったのだ。
自分の生きる道。それはあらかじめ決められたものかもしれない。だがたとえたったひとつでも、自分のものは自分で選びとりたかった。たったひとつでも、それが自分のものであると確信したかった。自分のものが欲しかった。
だから。
「……ここか」
少年がようやくその足を止めた先。
開けた場所にはその底まで見えるような濁りのない湖が広がっていた。
~中略~
「ごめんな」
「何が」
「俺、おまえのこと忘れたのに、ずっといてくれて」
「……」
「正直さ、たぶん本当に一人きりなら耐えられなかったと思う」
元いた場所を失って、記憶を失って、自分が自分であることなど何もわからなくなって。
でもおまえがいたから、本当に一人にはならなかった。
何もわからなくなっていた自分に、君は君だよとありのままを受け入れて傍にいてくれた。
だから自分はきっと自分のままでいられた。
ありがとう、と高崎は笑った。
もし宇都宮がいなければどうなっていただろう。あの時、気づけば周りは火の海で。すでに燃え落ちたがれきしか、視界には映らなかった。熱いのか寒いのかもわからず、呆然とその光景を見つめていたそれ以前に自分が何をしていたのかも覚えていない。だが、何の命も感じられないその場所で、初めて温度のある手に身体を引きあげられた。こんなにも周りが熱いはずなのに、その手の熱さにようやく意識を取り戻して、そこでやっと自分が座り込んでいたことに気づいた。
そして彼に促されるまま近くの町へと避難して、保護を受けたのだ。まだ幼かった自分一人では、きっとあの火の中に取り込まれていたに違いない。
「覚えてないから言えるのかもしれないけど、ここがこうなったのは取り戻せないしもうそれはどうしようもない。実際あの時なんであんなことがあったのかなんてわからないけどさ、王様はちゃんと悔やんでただろ?」
守れなかったと。すまないと。
謝ってくれた。忘れないでくれた。
「だからこれからは同じことが起こらないようにしてくれると思う。もうどこにもあんなことは起こらない」
「……君って本当に馬鹿だよね」
はああ。と大げさなまでに呆れたというそぶりを見せられて、高崎は唇を尖らせた。礼を言ってバカにされるのはどう考えても理不尽だろう。
「なんだよそれ」
「褒めてるんだよ」
「え、そうなのか、ごめん。さんきゅ」
「……本当に君は馬鹿だよね」
「だから繰り返すなって」
「そうじゃなくて。ここ、どうして怪我してるの?」
「え? あ、いつのまに」
言われて見れば自分の手からかすかに血がにじんでいた。なぜ式典に参加しただけで手の甲に擦り傷を作っているのか。そう言われれば、高崎も返す言葉がない。気づけば痛んできた手に眉を顰めていれば、その手を取られた。
「宇都宮?」
「今日は特別」
せっかくの式典だしね。という宇都宮の手に暖かな力が宿る。普段ならこんな怪我とも言えないような小さな傷で力を使うことはないのだけれど。今日の宇都宮は、何か普段とは違う様子を見せている気がする。
見る間に消えていく傷口におお、と高崎は声を上げた。幾度となく見ているがやはり何度見ても感心してしまう。
「やっぱりすごいな!」
「……君の鈍感さもすごいよ」
やはり呆れたように言われても、高崎は繋がれたままの暖かい掌に怒ることなどできなかった。

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