眠れない。
本日は日本中が自然の脅威をまざまざと実感させられた一日だった。
在来線はもちろんのこと、高速鉄道も私鉄も通常運行とはなんですかと鉄道の神様に問いかけたくなるほどにダイヤは乱れていた。
各路線とも自分の路線を動かすことに手一杯でいつの間にか終わっていた一日。
明日も早いというのに終業は日もすっかり変わってしまった時刻。
今東京駅の官舎では各路線とも意識を失うように眠りにおちていることだろう。
しかし自分とて疲れ果てているはずなのにまったく訪れない眠気に、上越はむくりと起き上がった。
「よし」
この際、とことん起きていようじゃないか。
額に『肉』はオヤクソク
「うお、あぶねえ!」
「なんで起きるかなあ」
「そりゃ物騒な気配がしたからに決まってるだろうが」
「……ちっ」
「今舌打ちしたよね?! 人の顔に落書きしようとして逆ギレしたよね?!」
「おとなしく書かれていればよかったのに」
「お兄さん、落ちない油性ペンで顔に落書きされたまま出勤したくないです」
「ああ、あの時おもしろかったねえ」
「そうそう。瞼に目を書かれたあの日は寝坊して西に行くまで気付かなくて、ジュニアにドン引きされた上に本線に大笑いされて……」
「西って容赦ないよね」
「いや、突っ込んでくれないとお兄さんどこまでぼけていいのか」
「ぼけだったの?」
「実話だよ! つーか、おまえがやったことでしょうが!」
「うん、おもしろかった」
「なんでこう育っちゃったかなあ……」
「本当にねえ」
「いや、だからなんで他人事なの」
今回は阻止されてしまいました。次こそは!
(いや、俺を標的にするのはやめて!by山陽)
無防備なほっぺたは頂いた!
「というわけで、山陽が引っ掛からなかったので次に行きます」
「その上越を止めるためにお兄さんもついていきますよ」
「力尽くでないあたり、山陽も面白がってる?」
「違うからね?! 俺じゃあおまえは止まらねえって知ってるだけだし!」
「その方が情けなくない?」
「うん、ちょっと言ってて悲しかった」
「そしてここは誰の部屋でしょうー」
「そう言えば、なんで俺の部屋に入ってこれたの?」
「イリュージョンです」
「そしてなんでここの鍵も開けられるの、お前」
「さて、よく眠っていますね」
「……会話って大事だと思うのよ、お兄さんは」
「かわいいなあ」
「つつくなって、寝かしてやれよ」
「うーん、明日起きられなかったらかわいそうだしね」
「その優しさがどうしてここにしか限定されないのか」
「やだなあ、さすがに長野に優しくなかったら駄目な大人じゃない」
「他にもそれを分けてくれ」
「だいたい、起きてるときじゃないと反応面白くないし」
「まって。なにをするつもり」
起きてからかぷっと食べさせてもらいます。
(うひゃあ、っと赤くなった長野はかわいいよ♪by上越)
暇だから起きて遊んで構って愛して
「ちょっと待った! ここはさすがに怖いから」
「そう?」
「あいつ、めっちゃくちゃ寝起き悪いじゃん」
「そうだね、それが結構面白いんだ」
「……何をしたのか聞いていい?」
「えーと、ネコミミつけて、首に鎖もつけて写真撮影とか。あとは鼻つまんでみたり……」
「うっわ、怖い物知らず。つーかおまえじゃなきゃあいつも許さないだろうな。……どうした?」
「いや、まあ」
「その後逆襲されたかあ?」
「……(ぷい)」
「あれ、本当に図星?」
「うるさいよ」
「(真っ赤な上越って珍しいな)」
「うるさい」
「何も言ってないじゃん」
「視線がうるさい! もう冗談通じないやつはだめだよね」
「(何か微妙にうれしそうにしている気がするのはなぜだ?)」
「べっつに構ってなんて言ってないのに。自分の都合のいいようにとるの何とかした方がいいと思うんだ」
「あー、だいたいわかった。うん、お兄さんが悪かった」
愛されるのもなかなか大変らしいです。
(素直に構ってって言えないやつの相手もなby山陽)
毛布は何処にしまったんだろうか
「あれ、二人ともまだ起きてたんだ」
「眠れなくてさ、ちょっと遊びに」
「おれはその防波堤」
「うん、なんとなくわかった。上越眠いんでしょ」
「え?」
「え?」
「あれ、山陽が気づかないなんて珍しい」
「ああ、そっかだからか」
「秋田も山陽も何言ってるの?」
「どうりで妙に素直だと思ったんだよなあ」
「なに? なんのこと」
「じゃあ上越はあずかるね」
「おう、まかせた」
「なにを二人とも勝手に決めてるのさ」
「そんな顔しても可愛いだけだから。さあ行くよ」
「わ、秋田ひっぱらないで」
「ベッド一緒でいいよね、毛布二枚いる?」
まあなくても一緒に寝ればいいだけなんだけど
(寝る前にぐずってるのってかわいいよねby秋田)
内緒で撮影 大満足
「それでこの状況か」
「いいでしょ、そんな眉間にしわ寄せてもあげないよ」
「……(おまえのものじゃないだろう)」
「言っておくけど、君のものでもないからね」
「……(なぜわかったんだろうか)」
「おお、よく寝てるな。あの微妙なテンションはよっぽど眠かったのか」
「上越せんぱい、ぐっすりですね」
「なかなか来ないと思ったけど、電話貰ってよかったわ」
「だってもったいないじゃない。こんな機会めったにないし、堪能しないと」
「東海道には?」
「言うわけないでしょ。山形に引きとめてもらってる」
「山形には?」
「後で写真見せるからって言っておいた」
「なるほどなあ」
「あの、これでいいんですか?」
「そうそう、ありがとね、長野」
「上越のデジカメ?」
「さすがにそんな痕跡残ることはしないって」
「俺にもプリント頼むなー」
「ok。東北は――」
「データごと」
「だめ」
「……」
「僕もいただいていいのでしょうか」
「うまく隠しておくんだよ」
「はい!」
もちろん裏に出回るようなことはしません。
(同僚だけの特権ですby高速鉄道・一部を除く)
うきうきと、弾むような足取りは両手に大事に持っているそれのため。
秋田からつい先ほど受け渡されたばかりのそれを抱きしめるようにして、長野は逸る気持ちを抑えきれないまま自室へと向かっていた。
それは傍から見れば微笑ましくさえ思えるような姿であった。高速鉄道の一員として肩肘張っている勤務中とは別人のように、今の長野は年相応と言えるような表情を見せている。
そしてその表情の出所と同じように、その手の中のものに気を取られていたせいだったのだろう。長野が後ろから近づくその人たちに声をかけられるまで気付くことがなかったのは。
「何を持ってるの?」
「ひあっ」
ばさっ、と。音を立てて落ちたものを拾うこともせずに勢いよく、長野は振り向いた。
聞き間違えるはずもないその声の持ち主は。
「そんなに驚くことないじゃない。何の悪巧みをしてたのかな?」
悪戯っぽく笑う尊敬する先輩と――。
――え?
「上官ではあるまいし、そのようなことはされないでしょう」
その先輩と自分の直属の部下によく似た姿の彼。
珍しいと言っていい組み合わせに、長野は今の状況も忘れてぽかん、と見上げてしまった。
犬猿の仲、というにはおたがい関わりあうことすら避けているような向きもあるが、とにかくけっして仲の良いとは言えない二人だ。その彼らがどうして並んでいるのだろう。
そんな疑問の表情を浮かべる後輩の様子にふっと笑みをこぼした上越だったが、自分に掛けられた台詞には笑みの種類を変えてその発言の主――宇都宮を見やった。
「僕ではあるまいし、とはどういう意味かな?」
「ああこれは失敬、口が過ぎましたね」
「僕だったら、そんな楽しいことに首突っ込まれても驚くわけないじゃないか」
「……なるほど。それは申し訳ありませんでした」
予想外の上官の台詞に一瞬声を失いながらも、宇都宮は普段の笑みを取り戻して一礼する。
そして、その視界に映ったものに手を伸ばした。
「あ」
慌てたような長野の様子に気付かないふりで、拾ったその表紙を見る。
ビニールのカバーがつるりと光るそれは、真新しさを感じさせる。いったいどんなものが入っているというのだろう。自分では作ることのないそれに純粋に興味が引かれての行動だった。
「見せていただいてもよろしいですか?」
「え、あの」
「あ、僕も見たい」
戸惑う長野の返事が返るより、上越の手がその表紙をめくる方が早かった。
「……鳥の写真ですか」
「へえ。朱鷺もいるんだね」
フォトアルバムの表紙をめくれば、そこに現れたのは数々の鳥と風景の写真だった。
水上を飛ぶ白い鳥の群れ。
広げた翼の色が青空に映える一羽の鳥。
鮮やかなそれらは素人が撮ったにしてはかなり良い出来栄えだった。
そしてふむ、と頷く上越には、それに心当たりがあった。
「山形の、か」
「山形上官はこういうものを撮られるんですか」
「そ。まさに好きこそもののってやつだね」
目を細めて言う言葉自体は軽いものの、その視線には愛おしさがあふれている。
やはり彼の名を冠する鳥がいるせいなのか。
見つかってしまうかと予想していたものとは違い、胸をなでおろした長野だったが、ふと貰う間際の秋田の言葉を思い出した。
『帰ってから整頓し直してね』
なるほど。こういうときのための用心にぬかりなく行われていたのか。
さすがだと感心している長野に、写真を見ていた上越は思いついたように質問をしてきた。
「長野は朱鷺が好き?」
「はい!」
そればかりは決して嘘ではない。
素直に頷けば、嬉しそうに笑った上越は、アルバムをそっと長野の手へと戻す。
「今度は落とさないように気をつけて」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた長野は今度こそ大事にそれを抱え直した。
後輩の背が見えなくなるまで見送った上越は、隣に立つにこにこと読めない笑顔の部下へ振り返りもせずに呼びかけた。
「で、宇都宮」
「何でしょうか?」
「何を抜き取ったのかな?」
「抜き取った、ですか?」
何の心当たりもない、という声に歪みそうになる表情を押さえて、こちらも笑みを作る。
「君のからかう相手は別にいるだろう」
「そうですね。何か伝言でもありますか?」
「そうだね。誰にでも付き合うのはやめた方がいいって言っておいて」
「了解しました。立場がどうであれ断る勇気も時には必要だと伝えましょう」
この場に本人がいれば泣いて逃げ出しそうになる空気を醸し出す二人だったが、幸いにしてかこの場には他に誰もいない。
ほうっておいたら延々とこの状態は続くことだろう。
しかし、昼休憩に向かう途中にたまたま出会ったところであり、空腹もピークに達してきていた上越は、いい加減化かし合いも面倒になってきて全部放り投げることにした。
この様子ではそれほど大したことでもないのだろう。
「……まあいいけど」
アルバムを広げた時に、長野にはわからないようにこっそりと動いた手の先。
そこにちらりとみえた紙片は、特に長野を困らせる意図があったわけでもないらしい。
何かがあるなら、そこはまた直属の上司から言って聞かせることにすればいい。
そう問題を先送りにした上越に、宇都宮は今までとは違った笑みを浮かべた。
「それにしても上官は愛されているようですね」
「どういう意味かな?」
「そのままですよ。高崎が喜ぶでしょう」
「?」
長野のことだろうか。
訝しみながら見る上越に、やはり宇都宮は滅多と向けない柔らかな笑みを浮かべていた。

PR
COMMENT