「やあ、久しぶり」
そしてかけられた声に、その人物の目的が自分だとようやく上越は知った。
ここまで傍に寄られても全くその可能性を考えなかった自分に驚く。だが、それでもなぜか彼の目的が自分だとは思わなかったのだ。
何かの間違いではないかとも思ったが、すでに人通りは少なく、他の誰に話しかけているわけでもないことがわかる。まして、まっすぐに上越へと向けられる視線には親しみがこもっていた。
では、と記憶を探るが、上越はどう考えてもこの目の前の人物に心当たりはなかった。まさか自分をからかうために誰かがしでかしたことなのか? そんなことまで考えてみても答えは出ずに、じっとただその姿を観察する。何の気負いも見えず自然に立っている彼は、ちょっと近所を出歩いているといったようなきわめてラフな服装だ。手にしている物も紙袋一つだけ。少なくとも会社員とは思えない。
いったい何者なのだろう。
じっと見つめる上越から何の返答がなくとも、気にした様子もなく彼はにこにこと笑っている。
上越の反応が鈍いことを予想はしていたということだろうか。
なぜか嬉しそうに微笑ましそうに見つめられて、まるで幼いこどもに向けられる視線のようだと思う。居心地が悪くなりながらも心当たりを探し続けるが、やはり思い当たるものは何もなかった。しかしここまで自分に似ているからには声をかけてきたことにも何か理由があるのだろう。
なんにしても覚えていないものはしかたない。
「……申し訳ありませんが、どちらさまでしたか?」
開き直って丁重に尋ねれば、彼はぱっとどこか痛めたような表情を浮かべた。覚えていないと言われたことに衝撃を受けたのだろうか。わかりやすいその変化に、まるで自分がそうしているようで妙に落ち着かなくなる。
しかし彼は気を取り直したようににっこりとまた笑みを浮かべた。
「そっか。まだ思い出せないんだね」
そして残念だと肩をすくめる。
まだ思い出せない?
その言葉に上越は引っかかりを覚えた。
まだ、とはどういうことだ? 覚えていない、ではなく思い出せないという言い回しも。それではまるで、上越が彼を知っていてそれでいて忘れていることが当然のようではないか。
しかしその疑問を声にする前に、彼は目を伏せて呟いた。
「まあしかたないよね。そうしたのは――だし」
「え?」
風に聞き取れない声のその部分こそが重要なのだろうと直感した上越が聞き返そうとすれば、彼はしかし勢いよく顔をあげたかと思うと楽しそうに笑いかけた。
「ねえ、君は今幸せ?」
「……それはどういうことでしょうか?」
唐突な言葉に、それがお前に何の関係があるのか、そう言い返したくなる。しかしもし仮にも乗客であるのなら、それなりの対応をしなければならない。
よそいき用に困ったような笑顔を張り付けてそれだけを口にすれば、彼はどこか歌うように上越へと告げた。
「君が僕を思い出せなくても君が幸せならそれでいいんだ」
それが自分の望みだから。
そこに浮かべていたのは上越には到底できないだろう優しげな笑みだった。
「……きみ」
いったい誰なんだ?
ざわりと胸の奥に何かが燻ぶる。
自分はいったい何を忘れている? 何を忘れてしまった? ひどく重要なことだとはわかっているのにそれはつかもうとすれば消えてしまうような泡のような存在で。そして、思い出そうとすればするほどどこか頭の奥で警鐘が鳴り響いているようだった。
思い出すな。思い出してはいけない。思い出してしまえば、それこそが足元をつき崩してしまうとなぜかわかっていた。何を思い出してもいないのに。
動けない上越にむかって、笑みを浮かべているままの彼は手にしていた紙袋を差し出した。
「あ、そうそうこれお土産」
「え」
「いろいろ悩んだんだけどね。やっぱり珍しい物より慣れた物が一番かなって」
「いや、そうじゃなくて」
貰う理由がない。相手の困惑には気づいているだろうに、彼はその手にある袋を上越へと差し出し続けている。受け取らなければずっとこのままだということはその強引さから知れた。だが、知らないものからの土産など受け取れるはずもない。
そんな上越の困惑した姿をどう思ったのか、なぜか彼は自信ありげに頷いた。
「大丈夫、君の好きなものだし。別に毒が入っているわけでもないから」
「だから」
そんなことは心配していない。
そう言おうとして、心配などしていない自分に気づいて上越は愕然とした。覚えてもいない相手の行動であるのに不安などまったく抱かなかったのだ。貰うこと自体に困惑はしても、警戒などしていなかった。それはあまりに自分らしくない行動だ。親しい相手だといっても一応は何を差し出そうとしたのかくらい気にするものだ。しかし今はそんなことすら思い至らなかった。
なぜだ。自分と似ているから? 覚えていないことに罪悪感を持っているから? 答えなど知れないまま呆然と相手の差し出した袋を見つめる。
すると、彼はまた唐突に上越へと告げる。
「……相変わらず君は綺麗だね」
それは、普通なら褒め言葉だと受け取れただろう。しかしその時の上越にそれは全く別の意味に響いた。
何故、おまえがここにいるのかと責められているかのように。
ざっと血の気が引く。目の前が真っ暗になったかと思うと、頭の中に鳴り響く音。上下左右の感覚も消えて、足元が沼地に沈んだかのようにおぼつかなくなった。
「大丈夫?」
そうして気づけば男の肩に頭を押しつけるようにもたれているところだった。
「……すみません」
どうやら、彼は上越の倒れそうになった体を支えてくれたらしい。こうしてみるとやはり体格も同じようなものなのだと良くわかる。身長からしてみれば細いと言われる上越の体型だが、それでも身長から見れば、というだけで実際にはかなりの体重がある。それを動揺もなく受け止めた彼はぽんぽんと上越の頭を宥めるように撫でていた。まるで幼いこどものような扱いに羞恥心を覚えながらも自分の体勢に何をしているのかと慌てて離れる。誰かに見られようものならひどく誤解を受けそうな状況だ。まだじんじんと頭の中でくすぶる耳鳴りのようなものは続いているが、みっともなく崩れるようなことは避けられてほっとした。
そんな上越をじっと見つめながら、先ほどと同じようにやはりどこか寂しげな笑みを彼は浮かべている。
「やっぱりまだだめかな」
何が、とは聞いてはいけないような気がした。聞けば何かが壊れてしまうようなそんな気がして上越は彼の動向を見守る。
硬い表情を向ける上越に今度は明るい笑顔を見せて、彼はひとつ頷いた。
「しかたないか。でもそろそろいいと思うんだよね。今日は残念だったけど、早く思い出してくれるといいなあ」
じゃあまたね。今度は思い出していてね。
そうして踵を返した彼はまるで何事もなかったかのようにやってきた列車へと消えていった。
夢ではないことと自分の名前すら呼ばれなかったことに気付いたのは、その列車がホームを走りだしたとき。上越がその手の中に押しつけられた紙袋の存在に気付いたときだった。
約束だよ。
君がわかってくれればきっと僕のことも思い出すから。

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