「上越」
かけられた声に顔を上げた上越は、目の前に差し出されたものにす、と表情を消した。
喧嘩を売っているのか。
まず頭をよぎったのはそんな言葉だ。
確かに今は業務中ではない。すでに終業して帰宅準備をしているところであるのだから、業務外のものを渡されても怒る必要はないだろう。
だがしかしここは怒ってもいい場面のはずだ。だいたいどこからこれを出してきたんだ。
「なに?」
言いたいことはたくさんあれど、まずは何の用かとじとりと睨みつければ、しかしまったく気にしていない同僚は、これが彼の地元にいるらしい親衛隊なら目をハートに輝かせているだろう無駄に男前な表情で言い放った。
「作ってくれ」
「自分でやれ」
すかさず返せば、珍しく目を輝かせていた彼はなぜそんなことを言われるのかわからないというように首をかしげた。
わからない、ではないだろう。
自分より上背はなくとも大型犬のような仕草に一瞬でもぐらりと心が揺れたことには蓋をして、頭が痛むと示すためにこめかみを押さえる。
しかし、ちらりと同僚に目を移せば、彼はやはりそれを手にしたまま上越が頷いてくれるのを待っているようだった。
「東北」
「作ってくれるか」
「作らない」
いくら待っても作ってなどやるものか。だいたい考えるまでもないだろう。なぜ自分が作らなければならないのだ。自分は彼のおさんどんでもなければ体のいい小間使いでもない。彼に頼まれたからと言って引き受ける道理があるはずもない。
そんな上越の思いに気付いているのかいないのか、もしくは見ないふりをしているのか。東日本の筆頭路線であるはずの彼は、まるでこどものようにずいと手にした冷ご飯の入った皿を上越へと押しつけようとする。
「おまえに頼みたい」
「なんで」
「米の管轄はおまえだろう」
「……ねえ、その目と耳は飾り? 掃除してるの?」
「してくれるのか?」
「誰がそんなこと言った」
違うのかと残念そうにする同僚の思考回路はどうなっているのか。いちど車両と一緒に検査をしてみた方がいいのではないかと考えかけて、それは検査技師に申し訳ないと考えなおす。
「あのね、僕は路線なんだけど?」
「そうだが」
当たり前のことを言っているのに、やはり不思議そうにする同僚に本気で頭痛を覚えてくる。この同僚は自分をなんだと思っているのだ。だいたい米どころという理由ならばそう言う彼自身も、彼とつながっている二人も同じことだ。有名な米どころをいくつも抱える東日本で、むしろ地元の米を愛さない者の方が稀だ。そういえばこの米はいったいどこのものだろう。まさか自分に頼む時点であきたこまちやはえぬきを持ってくることはないと信じたいが、何分信じきれないのも長年の付き合いからしかたのないことではないだろうか。
しかしそんなことはさておき、やはり納得はいかない。
「なんならお兄ちゃんにでも本線にでも頼めばいいだろう」
自分に頼む必要がどこにあるというのだ。
「それともなに? 僕が一番暇そうにでも見えているわけ?」
そう思っているのならば許さないと睨みつければ、それは思いもよらなかったというように目を見開いて首を横に振る。
さすがにそこまでは考えていなかったとほっとすると同時にやはり疑問が浮かぶ。
ならばなんだ、一番言うことを聞きそうな相手に見えるわけでもないだろうに。
「食べたいから」
「はい?」
「テレビで見て食べたいと思ったんだ」
「だから自分で作れ」
「おまえのがいい」
「……君ねえ」
このままでは梃子でも動きそうもない相方の手から、上越はため息をつきながら皿を受け取った。
「それで本当に作ってやったの?」
「酒と引き換えにね」
「それこそお兄ちゃんに押し付ければよかったんじゃないの?」
「あの兄は、弟と一緒に目を輝かせてちゃぶ台の上を片付けてたよ!」
片付けるまでもなく物の少ない部屋で、ちゃぶ台を拭きながら御馳走を待つこどものようにきらきらとした目で兄弟に見上げられる。それはいっそ涙さえ誘うような光景だっただろう。
「……なるほど」
想像のつきすぎる光景に遠い目をしてしまった秋田だったが、なんだかんだいって結局のところ上越が甘やかすからつけ上がるのだということは黙っておくことにした。本人もうすうす気づいているのだろうし、本当のことでも言っていいことと悪いことがある。
何より。
「今度は僕にも作ってね」
「……気が向いたらね」
自分が美味しいものを食べる機会を失うことなどあってはならない。
にっこり笑っておねだりすれば、素直でない同僚の了承が返ってきた。

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