ガシャン、と甲高い何かの割れた音に顔を上げる。
ああ、またか。
いったい何度目のことだったかなど、もう数えることもできやしない。
持ち帰った仕事を片付ける手を止めて一度大きく息をつくと、ゆっくりと足に力を込めて立ち上がった。隣室の扉へと向かうために。
「せんぱい」
暗い室内に一人隠れるように存在している、大事な人の元へ向かうために。
「先輩、入ります」
「……」
返事のないことなど気に留めず扉を開けば、光源のなかった部屋に光が差し込んだ。
そしてその照らされた先には。片足を立て、もう片方の足を投げ出すようにして彼がソファにもたれかかっていた。
ぽたり。
雫が落ちている。
それはまるで彼が泣いてでもいるかのように。
しかし、その目からは何もこぼれてはいない。その表情は何の感情を浮かべてもいない。
ぽたり、ぽたりと。ただ雫だけが、彼の感情を表すかのようにこぼれ続けている。
片足を抱えこんだ彼の腕を流れるその雫は目にも鮮やかな紅。彼のしなやかな細い指を伝って落ちるそれを見たのは、何度目のことだろう。
「先輩」
そしてこうして自分が彼に触れる機会を与えられることも。
「……先輩、いたいでしょう? ほら、早く手当てしましょう?」
「……ねえ」
「はい」
「赤い?」
「……はい」
そっとその赤をぬぐう自分を、彼はどう見ているのだろう。その赤に何を思うのだろう。
聞きたいけれど聞きたくはなくて、傷に触れないようそっと彼を腕の中に引き寄せる。すれば、彼は微かに身じろぎしたものの、抵抗など知らないように自分の腕の中に収まった。
その呆気なさに、ぞっと血の気が引く。
「――どうかしたの?」
「……いいえ。いいえ、なんでもありません」
「……ふうん」
彼は、こんなに小さかっただろうか。
少し力を入れただけで自分の腕の中に閉じ込めてしまえるような、そんな錯覚さえ覚えて。
それなのに、彼はどこまでも遠い存在なのだ。
「……ねえ」
まるで歌うように彼は自分の腕の中で呟く。
「はい」
「ねえ、ながの」
遠い、誰かの名前を呼ぶ。
「……はい」
「幸せになりたいよ」
それは夢を見るように。
「……」
はい、と答える言葉はもはや声にならない。
この手は彼を抱きよせられるだけの大きさを持ったのに。この腕は彼を抱きしめられるほど大きくなったのに。
大人になればできることは増えると思っていた。
大人になれば彼の望みをかなえられると思っていた。
だが、そんな夢も見ることのできない大人になったことを、北陸はもう知ってしまったのだ。

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