「あ」
「なに?」
「空が青い」
何言ってるんだ、こいつ。
背中にかかるその重さにふらつきそうになる足に力を込めて、本当に大丈夫かと問いかける11番に6番はこれくらい何でもないよと嘯いた。
それは、施設の隅にひっそりと設置されていた。
その場所は時間によっては建物の陰になるような位置。午前しか授業がなかった今日の晴れ渡った空はまだまだ陽も高くて、だからこそそれに反射した光が目に入ったのだろう。
一緒に帰ろうと誘った相手がふと足をとめたのにつられて、6番もそれへと視線を移した。普段使わないために気にも留めなかったが、ここにはこんなものがあったのかと今更気づく。昔は使われていたのだろう、しかし今は少しさびの浮いたそれを11番はなぜか魅入られたように見つめていた。
「どうしたの?」
「いや」
「鉄棒が気になるの?」
「そうだな」
「何か珍しい?」
「やったことがない」
「ああ、そうなんだ」
機会がなければ触れないまま過ごしてきたということも別におかしくはないだろう。ふうん、と何気なく相槌を打てば、11番はようやく鉄棒から6番へと視線を動かした。
「6番はできるのか」
「できるけど、やらないよ」
できるなら見せてくれと言われそうな気がして、先回りして釘をさす。すると残念な表情を浮かべるあたり、6番の予想は間違っていなかったのだろう。
じっと名残惜しそうに鉄棒にまた視線を向ける11番は何を考えているのだろう。今日も授業こそ午前中だけだったが、提出しなければならない宿題はたくさん出されている。それでなくてもこれから覚えなくてはならないことだらけだというのに、こんなところで遊んでいてどうするというのだ。
それとも。彼は覚えていないのだろうか。自分に言ったことを忘れているのだろうか。
何かもやもやしたものが胸の内に湧いてくる。それが何かなんて考えたくなくて、6番は踵を返そうとして。だがふと問いかけた。
「やりたいの?」
聞けば、しかし11番はまるで想像もしなかったことのように目をぱちりと瞬かせた。
違うのだろうか。あれほど熱心に見ていたのだから、そういうことではないかと思ったのだが。
「できるのか?」
「やってみなきゃわからないんじゃない?」
今度は6番ではなく自分にもできるのかという問いかけに、そんなことを自分に聞いても意味がないだろうと投げやりな返答をする。しかし、それでへこたれるような相手なら、こうして6番の傍にいようとは思わないだろう。
「教えてくれるか?」
わくわくしている。かすかに変わった表情からそれを察してしまった6番は、自分が促してしまったようなものかと諦めながら頷いた。
前回りと逆上がりとどちらにする?
問いかければ、何の事だかわからないと不思議そうにする11番に、本当に鉄棒に触れる機会がなかったのだと改めて知る。今までどんな生活をしてきたのだろう。
(……まあそれは自分も同じことか)
路線として生まれ、路線としてしか生きてこなかったのならば、ヒトの生活など全てを知る必要はない。不要なことを覚えるよりも、必要な知識を身につけることの方がよほど重要だ。
だけど。こうして教えてしまうということは、自分は彼に何か期待しているということなのだろうか。
「6番?」
「ああ、ごめん。じゃあ前回りの方が良いかな」
ふと物思いにふけってしまった6番を11番はどこか気遣わしげに見つめていた。謝りながら、今はそんなことを考えている場合ではないと思いなおす。こんなことはすぐ終わらせなくてはならない。帰ってするべきことはいくらでもあるのだ。
前回りの方が怖くないだろうし、基本はそちらからだろうか。
こういうの、と実際にやるわけではなく6番が身振りで説明すれば、しかし11番は逆上がりが良いと言った。
「なんで?」
「前回りは頭から落ちそうだ。逆上がりなら上がってしまえば足から降りられるだろう」
なるほど、そういう考え方もあるのか。
上がりきれない場合はどうするのか聞いてみようかとも思ったが、さあ早く始めようと元気に動く尻尾の幻影が見えてしまったために、それを言う機会は消えてしまった。
しかし。何度やっても11番の身体は鉄棒に乗ることはなかった。
地面を蹴ってあがろうとするのだがどうにもうまくいかない。
「無理なのか」
しょぼんとうなだれる11番に今度はへたっている耳が見えてしまうのはいったいどういうことか。けっして自分は動物好きなわけではないのだがと6番は思う。それなのに、こんなものが見えてしまっては自分がいじめたような気になってしまうではないか。
ああもう、本当にしかたがない。
だいたいこんなものコツがわかればすぐなのだ。
「6番?」
幾度ものチャレンジで疲れたらしくしゃがんでいた11番を立たせて支える。
「僕が支えるからそこで足を上げてみなよ。回るまで行かなくていいから体が浮く感じだけ、とりあえず覚えて」
「……わかった」
だが、と6番は心配そうに眉を顰めた。
「おまえは大丈夫か?」
「ほとんど変わらないくせに何言ってるんだよ」
体格差なんてあまりない。だからこそ支えきれずに落とされる心配をしているのだろうが、これでもそれなりに体力作りはしている。何しろ自分はあの重い雪の中を走るのだ。11番くらい支えられないわけがない。
短い言葉の中から11番の言いたいことを無意識にも正確にくみ取った6番の言葉に、11番は目を瞬かせた。
「なに?」
「いや」
「いいから、早くやってみる」
「わかった」
こくりと頷いて、11番は6番に背中を預けた
そうして、冒頭の台詞だ。
「あ」
「何?」
「空が青い」
何を言いだすのだ。
「こっちは地面が暗いよ」
昨日の雨の影響でかすかに湿った地面は色味を深くしている。
11番を支えることで結果的に地面を見つめることになった6番は、のんきな11番の言葉に顔を顰めた。
「6番も見るといい」
「この体勢でどうやって」
6番はその背中で11番の背を支えている。要するに彼と背中合わせになっているのだ。こうしているからこそ11番が空を見ているというのに、6番が同じ方向を見られるわけがないというのに、彼は何を言っているのだろう。空に背を向けたこの状態で、11番と同じものが見えるわけがない。
呆れて抜けそうになる力を何とか奮い立たせて背中を支え直す。
さあもう一度、地面から離れる練習を、と続けるが、しかし11番から返ってくるのは同じ感想ばかりだった。
「空はこんなに青かったんだな」
「昨日もその前も最近はずっと晴れてただろう。今まで何を見てたんだよ」
「……さあ、なんだったんだろう」
「11番?」
その声が、あまりにも彼らしくはなくて。不意に、今自分が合わせている背中は誰のものなのか、不安に襲われる。
が、それもわずかのこと。
「そうだ、やっぱり見るべきだ」
「うわっ?!」
急に引かれた手に、6番は視界を反転させた。
どさり。
咄嗟に受け身を取って衝撃を逃がす。それでも、予想もしなかった相手の行動に6番の体勢は大きく崩れていた。打ちつけた肘が痛い。
地面に半ば転がるような体勢で、何をしてくれるのかと怒鳴りかけた6番は。
「眩し――」
広がる世界に言葉を失った。
視界には雲ひとつない晴れ渡る空。一面に広がる青。それはまるで自分たちが目指すあのラインの様な。
そして。
「ほら青いだろう」
何故かそれを自分の手柄のように笑う、未来の同僚の姿。
こんなに世界は明るいのだと、11番は楽しげに笑っていた。
自分たちが走るこの場所は、こんなにも美しい空の下にあるのだと。
ああそうか。
「……僕も見えてなかったのか」
「何が?」
「ううん、ありがとう」
久しぶりに、空を見上げた気がする。
ずっと机ばかり地面ばかり見ていて、未来を見るために、今を見ようとはしていなかった。
大事なものは、ここから積み上げていくというのに。
それに気づかせてくれてありがとう。
6番の礼に、11番ははにかむように微笑んだ。
でも。とにこりと笑った6番は立ち上がる手伝いをしようという11番の手を掴むと。
「うわっ」
思いきり引き倒した。
「泥だらけになった報復はさせてよね」
「あ。すまない」
6番の隣に転がった11番は、ようやく己が6番にしたことに気づいたようだ。目を瞬かせると慌てて頭を下げる。
「せっかく僕が補助してあげたってのにさ」
それでこの仕打ちはどうなのだと責め立てれば、小さくなって頭を下げ続ける。
「すまない」
「今回はともかく、次からは一人でこれくらいできるようになってよね」
「ああ、今度は自分の番だ」
きっと6番を助けられるようになる。
気負いなくそう言った11番に6番は目を瞬かせると、ふわりと微笑んだ。
「期待しないで待ってるよ」
これからも、二人ともに歩んでいくことを。
すでに二人とも信じて疑うことなどなかった。

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