コンコン、と軽いノックの後。開かれたドアからのぞいた顔を見て、高崎は座っていた椅子から跳ねるように立ち上がった。
「高崎、いますか?」
「長野上官?!」
同僚の素っ頓狂な声に、室内にいた在来線たちも姿勢を正した。なにしろここは在来の執務室、だというのに現れたのは本来ならこちらに出向くことのない自分たちの上司に当たる存在だったからだ。だらりと力を抜いていた幾人かも何事かと緊張の面持ちで長野を見つめている。
しかしそんな視線も慣れたものなのか。当の長野は全く気にした様子もなく扉の位置から自分の部下へと目を向けた。立ち上がった瞬間崩してしまった書類の山を直そうとして振り返った高崎は、それをいったん諦めるとあたふたと落ち着きなく上司の前へと向かう。そして自分とは全く視線の高さの違う上司のためにその腰を落としてどうしたのかと尋ねた。
「なんでこちらに」
「これを」
持ってきたのです。と手渡されたのは厚みのある封筒だった。中身を確かめると上司たちがまとめたらしい次の会議の資料が入っている。それも社外秘のものが含まれている重要な書類で、だからこそ直接持ってきたのだろうと高崎も納得した。
わざわざすみません。と受け取りながらしかし高崎は首をかしげてしまう。それにしても量が多すぎないだろうか。
「こんなに?」
「はい、僕だけのものではありませんし」
確かに、よく見ると長野だけではなく、秋田や上越のものまで混ざっているようだ。だがなぜ他の上官の分まで持ってきているのだろうか。彼らが長野を使い走らせるとは考えにくい。まだ幼い姿のこの上官に対しては誰もが無理を言うことはないだろうに。
いや自分の上官ならあり得ないこともないだろうが。
「秋田せんぱいは上越せんぱいのところに行かれたので」
考えていたところにその名前が出てきて、まるで見透かされたかのように感じてびくりと肩を震わせる。しかしそんな高崎には気づいていないらしい長野は、その名前を口にした途端、そうだ、と声を上げた。
「そういえば高崎」
「はい?」
は、と見下ろした先。高位の制服をその身にまとった、しかし幼いこどもの言葉に高崎は硬直した。
「筆おろしって何ですか」
「――は?」
一瞬の空白。
ぶふぅっ、と奇妙にくぐもった音が部屋に響いた。
うわ吹くな、抑えてろ!
背後で騒ぐ声が聞こえてくるが、それどころではない。
今、この上官は何を言ったのだ。
「え、あの……?」
「高崎も知りませんか」
「いや、その」
残念だ、という顔をされても返答に詰まる。今聞こえた言葉は空耳ではなかったらしい。となるとどう説明すればいいのだ。いや、知らないと押し通した方が良いのか。その前になぜそんなことを聞いてくるのだろう。
ぐるぐると混乱する頭では、目の前の上司がどんどん表情を曇らせているというのに気の利いた言葉の一つも出てこない。元々そんな言葉がすぐに思い浮かぶ高崎でもないのだが。
慌てるだけで良い解決方法も浮かばない高崎に、意外なところから救いの手が差し伸べられた。
「その言葉をどこで?」
宇都宮、とにこやかに背後から近寄ってくる同僚の名を呼ぶ。ほっと安堵の表情を浮かべる高崎は、呆れたような京浜東北の表情に気づきはしない。なんでそこで安心できるのか、余計にややこしい事態になることがわからない高崎の方が信じられないといわんばかりのそれは、だが伝わることはない。
宇都宮の問いに、長野は予想通りの答えを返した。
「上越せんぱいが仰ったのです」
ああ、やはり。くらりと目眩を引き起こしかけた高崎は目を閉じてそれをやり過ごした。
「秋田せんぱいにうかがったのですが、上越せんぱいのお名前を呼びながらでて行かれてしまいました」
だからこうして自分が書類を持ってきたのだと長野は経緯を説明する。
経緯はわかった。そして秋田のその気持ちもよくわかる。
(上越上官~)
こんな幼いこどもの前でなんという言葉を口にするのか。
「新車両の走行練習の話をしていた時の言葉でしたので、業務に関わることならば覚えないといけないと考えたのですが」
だが、こどもはひどく真面目にその言葉について考えていたようで。どう返答していいものかとやはり高崎は悩んだ。ここで本当のことを伝えてもいいものなのだろうか。
しかし、そんな高崎の逡巡をよそに、宇都宮はあっさりと答えを出した。
「なるほど、了解しました。高崎」
「え?」
「教えて差し上げたら?」
「なっ?!」
なんてことを言うのだ。というか、そこで自分に振るのか。
ならおまえが説明すればと言いかける前に、ぱっと長野の表情が輝いたのが見えて言葉を失う。
「知っているのですか?」
「ええ、もちろん」
「宇都宮、おまえな」
「あれ、もしかしてまだだった?」
「俺は違うって言ってるだろ!」
「じゃあいいじゃない」
「なんでそうなるんだよ!」
繰り広げられる言い争いに、しゅんとした声が挟まれる。
「あの、僕には言えないことなのですか?」
「いやえっと、その」
うろうろと視線をさまよわせれば、にやりと嫌な笑みを浮かべた同僚と目があった。
「いいんじゃねーの、それくらい」
「武蔵野他人事だと思ってるだろ、おまえ」
睨みつければ、同僚はだって他人事だし、とでも言いたげに楽しそうに笑っている。
「まあな。俺ももう昔すぎて覚えてねーし」
「俺だってそうだよ!」
何十年生きていると思っているのだ。自覚しなくとも世間のことだってそれなりに知っているはずだ。
しかし何を言ってものらりくらりとした同僚に振るのは危険だと判断して、高崎は他へと視線をうつした。言葉をうまく操れる相手といえばそうはいないが、こどもに対して害のなさそうな同僚は。
「京葉は?」
「え、魔法使いにそんなこと関係ないよ。武蔵野が必要だっていうなら考えるけど」
「おまえは夢の国にずっと住んでろ」
すげなく返されれば残念と笑う京葉に、期待できないと理解する。
「じゃあ埼京」
「え、僕? 僕も知らないけどなんのこと」
「はあ?!」
「そんなに驚くようなことなの?」
きょとりと目を丸くする埼京は本当に知らないようだ。
「……おまえ、騙されるなよ」
「誰に? っていうか何の話さ?」
ぷうと頬を膨らませそうな同僚に今説明するのは危険だ。ならば、と下からの上司の視線を感じて焦る高崎の視界に、未だむせて目に涙を浮かべる同僚が映った。
「東海道!」
「俺に振るな!」
振り返る彼の表情が恨めしげであることはこの際無視だ。最初の鉄道である彼ならば業務にかかわる適当な話でも出してくれるという期待を込めて見つめれば、諦めたように溜息をつかれた。
「ほんっとうにおまえはなあ……」
「俺がうまく説明できるわけないだろ!」
「そんなことで胸を張るな!」
「……だってさあ」
しょぼんと項垂れる高崎にそれ以上なにを言っても無駄だとわかったのだろう東海道は、ちらりとその横にいる人物に視線を移すと額を押さえて口を開いた。
「ああ、もういい。宇都宮も余計なことを言うな」
「おや? 僕は何か言ったかな」
ああ、そうそう。と宇都宮は名案が浮かんだと手を叩いた。
「長野上官、業務のことでしたら東海道上官にお聞きになるのは?」
「宇都宮!」
言った傍から余計なことを口にする宇都宮に叱責が飛ぶが、そんなものは宇都宮にとってはどこ吹く風だ。
「だから東海道が教えればいいじゃんか」
「だめだよ、高崎。東海道は上官のことでそれどころじゃないだろうし」
「兄貴は関係ないだろ!」
「そこで東海道上官のことしか浮かばないのが君だよね」
「え、あ……」
知らずに追い打ちをかける高崎とそれをうまく拾って墓穴を掘らせる宇都宮に撃沈した東海道は、隣で黙っている同僚になんとか言ってくれと弱々しい声をかけた。
「なんで僕に振るの」
馬鹿馬鹿しい、と表情に書いてある在来のまとめ役は、見上げてくる上司の幼い表情にふと表情を緩めた。
「すみません、長野上官。しかしそれは業務に関係することではありませんので、御心配なされる必要はないかと思いますよ」
「そうなのですか」
「ええ。一般的に流通している別の意味もありますが、たぶん上越上官がおっしゃったのは、新しいものを使えるように調整すると言った意味でしょう」
そうか、そのまま普通の意味を伝えればよかったのか、と感心する周囲に、呆れたような眼を向けて京浜東北は首を振った。
「別の意味とは?」
「それはそのうち知ることになるとは思いますが、あまり御自分から口にされることはお勧めしませんね」
神妙に京浜東北の言葉を聞く長野に、これでようやくことがおさまると安堵しかければ。
「長野上官! 筆おろしについて知りたいんですか?!」
ばんっと勢い良く扉を開いて現れた男によってその空気は打ち破られた。
「信越!?」
なんでここにいる、と高崎が言う間もなく、信越は長野の前に膝をついている。
「なんでしたら俺が実地で」
「何言ってんだよおまえ!」
どうしてせっかく収まったと思った話題を蒸し返すのか。慌てて引きはがそうとした高崎だったがその必要はなかった。
「君はばかか」
べしっ!とその頭をはたいて現れた人物のために。
「上越せんぱい!」
ぎくりと何人かが緊張に身体をこわばらせる。が、そんなことなど気づきもしない長野の表情はぱあっとほころんでいた。ただ同僚が来たからというわけではない、大好きな人が現れたのだと言わんばかりのその変化に、室内の空気がつられるように柔らかくなった。
叩かれた場所を押さえた信越は涙目で己の上官を見上げた。
「痛いです、上官」
「痛いのが好きなんじゃないの?」
「まあ否定はしませんけど」
「否定しろよ?!」
「いやそこはそれ、上官の愛の鞭は受け取るべきだろ」
「なんで愛がこもってるってわかるんだよ」
「当然だろ。嫌いな相手に近寄る上官じゃないぞ」
なるほど、と思わず納得した高崎の腕にぴたりとその話題に出された上官が細い腕を絡みつかせる。
「そうか、高崎は僕に愛を感じないというんだね」
「え? いやその」
「上越上官」
慌てる高崎をさりげなくその上官の手から遠ざけながら、宇都宮はにこりと笑みを浮かべるとこの場の混乱について上官へ非難の言葉を向けた。
「元はと言えば上官のお言葉が原因とのことですけど?」
それに面倒そうにはあとため息をついた上越は、おそらく秋田から絞られてきたのだろう。何のことだと問い返しもせずに、ただ自分を見上げてくるこどもを見下ろした。
「ねえ長野」
「はい」
「僕のこと好き?」
「え?」
場違いとも言える質問に目を瞠った長野は、しかしその意味を理解するとはい、と大きく頷く。
「ふうん」
「上越せんぱい?」
「今だけじゃなくて?」
北陸になっても、気持ちは変わらない?
それは幼いこどもにとっては永遠とも言える言葉だろう。だが、迷いなく長野は頷いた。
「はい」
「そう。大きくなって、それでもそう言えるなら教えてあげる」
それこそ実地でね。
艶やかな笑みに見惚れる長野の頭をなでて、上越は振り返った。
「ほら信越、くだらないこと言ってないで行くよ」
「あ、はい!」
「高崎も、その資料ちゃんと読みこんでおいて」
「はい!」
部下たちの返答に満足したらしい上越は、長野の手をとるとその場を後にした。
嵐が去った後の様な状態に脱力する路線たちの中で、京浜東北だけが淡々とホワイトボードに『アクシデントとその対策』と書き連ねている。
そんな中、自分の腕を掴んでいる相棒に、恐る恐る高崎は尋ねた。
「なあ、本当に教えると思うか?」
「たぶんね」
長野が、北陸が真実そうと望むならあの上官が拒むことはないだろう。
たとえ、それが彼の望まないことだったとしても。
「またあの人はなんでああいうこと言うんだろうね」
「……長野上官が好きだから?」
「さあ、それは知らないけど」
そう、彼が何を考えているかなど知らない。ただ。
「大丈夫じゃないかな」
「?」
「君も長野上官も甘いからね」
「何の関係があるんだ?」
「長野上官が大きくなったらそんなことは望まないと思うよ」
大好きな存在を本当に傷つけるようなことを、優しいあのこどもが大きくなって理解しないはずがない。
「ああ、でも」
「なんだよ?」
訝しい表情を浮かべる相方の腕から手を離すと宇都宮は彼の去った扉を見つめた。
それが、真実彼を傷つけないとも限らない、か。
「まあなるようにしかならないだろうね」
「宇都宮?」
「それじゃあ京浜東北が怒る前に僕らはミーティングだ」
「あ、うん」
自分には関係ない。だが、この相棒が巻き込まれるなら別だ。
さて、どうするべきなのかな、と宇都宮は遠くはない未来に思いをはせた。

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