「戻った」
「おかえり」
疲れていた、だからというわけではないがその声を聞いた瞬間、まず感じたのは深い安堵だった。
出先で予定外の雑務に追われ、結局そちらで過ごすこととなってしまったこの数日。その間の二人で行うはずだった業務を任せきりにしてしまったことに申し訳なさはあるものの、彼以外に任せられる相手がいるわけもない。自分がするよりもむしろ完璧にこなされたその業務報告こそ受け取っていたが、こうして顔をあわせるのは数日ぶりだ。最後に彼を見たのは出張する直前のこと。彼の声に、帰ってきたのだということがようやく実感できた。
部屋の中にはただ一人机に向かう上越の姿。山と積まれた書類は彼自身の物だけではないはずだ。
自分の業務もあるのに自分の分まで負わせてしまったことへの感謝の意も改めて伝えなければと考えた東北は、そういえば、と手にしていた書類の存在をはた、と思い出して声をかけた。
「上越」
「なあに?」
顔を上げた上越が浮かべていたのはひどく穏やかな笑みだった。普段のような皮肉もなく面倒そうな様子もなく、まるで労わるようなそれに、東北は何を言おうとしていたのかを忘れて口ごもった。
いや、業務についての話をしなければならないのだ。それはわかっているが、今言わなければいけないのは別のことのような気がした。
声をかけておきながら顔を顰めるだけの同僚に、上越は不思議そうに首をかしげる。
「東北?」
「――」
その声が後押しするように。口にしようなどとは思わなかった言葉がするりと口をついた。
いや、言ったことに自分で気付かなかった。
ただ、瞠目している相方に、東北は自分の行動を気付かされた。
――ああ。言ってしまったのか。
真っ白になった頭の中にそんな言葉だけがぐるぐると回る。
伝えたこと自体に後悔がないと言えば嘘になる。
彼はどう思うだろう。それは怖れるものなどほとんどない東北にとっても気遣わしいことだった。
呆れられるか何を言ってるのかと怪訝に思われるか、もしくは気持ち悪いと否定されるか。表情には出ていないが反射的な自分の行動に内心焦っていれば、しかし彼は想像とは全く別の表情を浮かべた。
ぽかんと無防備に驚きを表したと思えば、やがてだんだんとその白い頬が桜色に染められていく。
そしてなぜか泣きそうにも見える表情で口を開いた。
「――ありがとう、とはどういう意味だろう?」
「何それ、哲学的な問題?」
「……いや」
そういえばこの部屋にいるのは自分だけではなかったのか。
ふと口をついた言葉に返事があったことに驚いて東北は顔を上げた。
そうすれば見慣れない物体を口にくわえている同僚の姿が視界に入る。
「……秋田」
「大丈夫、冷めてもけっこうおいしいよ」
思わず呼びかけた名前に、秋田は頬袋でも持っているのかと聞きたいほど手にしたものを口いっぱいに頬張って笑った。
別にそんなことが聞きたいわけではないのだが。
食べにくいのではないだろうかという大きさのそれを、こぼすことなく器用に秋田は咀嚼している。見事な食べっぷりは見ていて気持ちがいいほどだ。……業務中でなければ。
咎めるような視線になってしまっていたのか。実際は呆れ半分だったのだが、秋田は東北に弁解するように手を振った。
「ちょっと腹ごなししたら再開するってば。午前中全然食べる暇なかったんだよね」
「そうか」
「で、何悩んでるの? まあ君のことだから、仕事か兄か上越のこと? ってそんなしかめっ面しなくても」
本当のことだろーとさらりと告げてくる秋田にはまったく他意はないらしい。
そして確かにその中に答えはあるのだから、東北としては黙り込むしかなかった。
あれは自分たちの問題で、他に話すようなことではないと思ったのだ。だからと言って誤魔化したり嘘をついたりするほど東北は器用でもない。
「……地顔だ」
「まあ元から表情柔らかくはないけど。君意外と表情に出るよね。まあ僕は上越みたいにそれがどういう意味なのかまではわからないけど」
さらりと、上越が自分のことをよくわかっていると告げられて東北の胸が軋む。
あの寂しがりやで捻くれ者の同僚は、確かに周りのことをよく見ている。自分が楽しむためだとうそぶきながら、それ以上に周りとの距離をはかっている。
それは、彼自身が傷つかないため?
東北は、彼の何を知っているのだろう。
少なくとも、あんな表情で礼を言われる理由はさっぱりわからなかった。
あいかわらずお得なやつ。
傍目には生真面目に悩んでいる姿、同僚からすればただの仏頂面にしか見えない東北は黙ったままだ。
大きく口を開いておやつにかぶりついた秋田は、その様子にずるいなどという考えを浮かべてしまう。頭の中で何を考えていようと、たとえどれだけくだらない内容だろうと、その姿は部下からしてみれば憧れの対象となってしまうのだから。
だいたい、自分の方こそ他人の間食を咎められるほどに仕事に身が入っていないことに気がついてはいないのだろうか。もしこの場に上越がいたならば、おまえの方こそ目の前の書類に専念しろと叱りつけているに違いない。
まあ所詮その上越についての悩みであるのは十中八九間違いないだろうが。
――痴話喧嘩に巻き込まれるのもいい加減面倒なんだけど。
吐息をつきかけて、幸せが逃げてしまうと慌てて飲みこんでいれば、沈みがちな空気を引き上げるような明るい声が部屋に響いた。
「よお、おつかれさん」
「あ、おつかれー」
今日は東方面での業務があったらしい。書類を片手に扉を開けて入ってきたのは今では東京から九州までという広範囲を走る山陽だった。
きょろきょろと視線をさまよわせた山陽は、室内に二人しかいないことを確認すると、書類を東北の机へと置いた。何かと視線で尋ねれば回覧、と答える。とすれば、東北だけでなく自分も確認するものらしい。
なるほどと頷いた秋田の手元に視線を落とした山陽は、ここでは見慣れないものを見たからだろう。軽く目を見開いた。
「なにそれ、たこせんじゃん。珍しい」
「珍しいよね! 移動屋台みたいなのが駅前に来ててね、思わず買ってきちゃった」
今日のおやつに、とかぶりついていたものに話題を移されて、秋田も勢い良く頷く。
たこ焼きを大きなえびせんべいに挟んで作られたたこせんは、関東ではあまり見かけないものだ。その形状から食べにくさはあるものの味はまた買いたいと思わせるには十分すぎるものだった。惜しむらくは今回たまたま巡り合えただけで普段からすぐ手に入るわけではないことだろう。
食べられないと思えばつい切なさに吐息がこぼれてしまう。
「西の美味しいものももっとこっちにくればいいのにねえ」
「いろんな物は溢れてるけど、こういうチープな地方グルメで専門の店ってのはどうなんだろうな」
「美味しければ絶対はやるでしょ」
「地方独特の味覚ってのは理解されないこともあるぞ。東海道なんか自分専用の味噌置いてるんじゃないか?」
「ああ」
他の地域に比べて格段にその調味料を使う頻度が高い地元を持つ高速鉄道の王様は、地元と他地域でのラインナップの差に嘆いていたことがあるらしい。東でもデパートでなら手に入らないこともないのだろうが、そのような贅沢をあの始末屋がするわけもない。
あげられた例に納得した秋田は、ではそういう山陽の方はどうなのだろうと思った。食文化というなら西も他地域に負けない独創性があるだろう。
「西の執務室にはいろいろあるの?」
「いやいや、期待されても何も出てきませんよ。……そんなこともないか?」
「え、なに?」
結論を翻した山陽は、くるりと首を部屋にいたもう一人の方へと動かした。
そうすれば一応二人の会話を聞いていたらしい東北と視線が合わさる。
「なあ東北、おまえ上越に何言ったんだ?」
「……?」
「うちの執務室でふて寝してるぞ、あいつ」
「上越が?」
業務表を見れば、確かに今上越はこちらに戻っている予定だ。
しかしなぜわざわざ他社の執務室なのか。
理由を知っているかと尋ねればあっさりと山陽は答えた。
「東北の来ないところだからだと」
「まあたしかに山陽のところにはめったに行かないけど」
用事もないのにおしかける理由もない。
だからといって、上越が東北を避ける理由というのはわからない。言いたいことがあるなら彼ならば厭味も込めて直接対峙するだろう。妙なところで負けず嫌いを見せる同僚を思えば、今の状況は理解しがたいことだった。
「だろ? だからまあ、この間東北が何か言ったのかと思ったんだけどさ」
違うのかと問われるが、東北に答えられることはないらしい。気難しげに首を振るだけだ。むしろ妙に訳知り顔の山陽の方こそ何を知っているというのだろうかと秋田は首をかしげた。
「ちょうどタイミングがそれっぽかったからさあ、てっきり。上越に聞いてもそれ以上口割らないし」
「タイミングってなにかあったっけ?」
最近この二人だけが関わる何かがあったのかと考えるが、それらしきことは思い出せない。では当人は、と見れば東北自身も何も思い当たらないようだった。眉間にしわを寄せて何やら考え込んでいる。そして逡巡したように間をおいて開いた口から、ようやくといったように疑問の言葉が漏れた。
「どういうことだ?」
しかしその言葉には山陽の方が面喰ったようだ。
「え? ちょっと前におまえが言ってたんだぞ」
「……?」
「ほら、この間もうすぐ4月だなって話してて」
それは、3月も終わりに近づいた日のこと。
『そう言えば去年は見事に騙されてたんだよな』
『……?』
『ほら、4月の』
『……ああ。あれか』
『上越のことだし今年も何か考えてるんじゃないのか?』
『そうだな』
『忘れてまた騙されそうだな、おまえ』
『……』
『逆におまえから言うのはどうだ?』
『俺から?』
『意外と騙されるかもよ』
そんな会話が確かにあったという山陽に、幾分考え込んだ東北はやがて思いあたったらしく顔をあげた。
それは去年の春。
「つかれたー、癒しが欲しいー」
くてん、とソファの背もたれになついている同僚に視線を向ければ、それを待っていたように彼は東北の方を見つめていた。
目は口ほどに物を言うという言葉があるが、彼の目はけっして常に雄弁というわけではない。熱の込められない視線はその視界に何か映っているのかと疑問に思うほどだ。
それでも。向けられた視線は自分に何かを言いたいのだとは理解して東北はため息をついた。
「……どうすればいい」
きょとんと眼を瞬かせた彼は、まさか東北がそう返してくるとは思っていなかったのだろう。
なぜか呆気にとられた様子で無防備な表情をさらしている。しかし何を思いついたのだろうか、やがてにやりとその整った顔に楽しげな表情を浮かべて、東北に向かってちょいちょいと手招きをした。その動きはまるで動物相手にでもしているようだ。そんなことを思いながらも促されるままに近寄れば、するりと首に上越の腕が絡んだ。
どきりと。心臓が高鳴り、息が詰まる。
そして至近距離で告げられる言葉は。
「ちゅーして?」
「……」
それはどういう意味だった?
聞こえたそれがまるで聞き覚えのない異国語のように、頭の中に響く。
硬直する東北にぴたりと身体を寄せていた上越は、やがて耐えきれないように吹き出した。
「……何を」
「冗談だってば」
「じょうだん」
「それ以外に何があるの」
笑っているのだろう。彼が話すたびに伏せられている肩に振動が伝わる。それが妙に心地よく、またどう反応すればいいのかわからない東北は浮いた手をどこに置くべきかと悩んだ。
そんな二人の空間をようやく打ち破ったのは、戻ってきた同僚だ。
「おつかれー。って、どうしたんだ?」
けらけらと笑い転げる一人と仏頂面で硬直しているその片割れに、山陽は何が起きたのかと目を瞬かせた。
「あーもう笑いすぎて息が苦しい。ね、山陽ちょっと」
「何?」
するりと自分から離れて山陽へ向かい手招きする上越に、東北は得も言われぬ気分を味わう。自分相手だけでなく誰にでも同じようにそうするのか。
そんな東北の感情など気付きもしない二人は、先ほどまでの東北と上越をなぞるような行動をとっていた。ただ違うのは、相手の首にまわされはせずに背後で組まれた手か。上越は近付いてきた山陽の肩へまるで頭を乗せるように小さく首をかしげた。
「ちゅーして?」
言い終わるとすぐにぶっと耐えきれないように吹き出す。つられるように山陽も表情を緩めた。
「おっまえ、何十年前のCMだよ」
「ねえ、何かふと思い出しただけなんだけどさ」
わかっているらしい二人の会話に耳をすませ、ようやく東北も思い至る。どうやら上越はCMとやらの模倣をしていたらしい。
「ちょうど今日の日付思い出したから」
「ああ、なるほど。まあ今日だったら笑いごとで許されるよなあ」
「ねえ」
今日?
「今日だからね。ね、東北?」
「何が」
ゆるしてね。
開かれた口の動きだけを追って、東北は音に出されない言葉を受け取った。
「……今日は何日だった?」
「なに、どうしたの。イベント続きとはいえ年度初めから疲れすぎじゃない?」
あの日は何日だった?
何の日だった?
「……嘘など、言っていない」
「え?」
「おい、東北」
「いってくる」
「どこに、っておい!」
背中にかけられる声になど構っていられない。
行ってくる。言ってくる。
今度こそ、本当の気持ちが伝わるように。
4月ばかのお話

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