高速鉄道はおろか、在来線もとうに終電を終えた時刻。
始発に向けて休息を得ることは、職務を果たす上でむしろ当然の義務だ。
しかし、普段ならばその責務に忠実な彼は、眠気など片鱗も窺わせない視線で己の傍らに眠る同僚を見下ろしていた。
力の抜けた表情は普段の彼を知っていれば驚くほど幼く見える。
そっと手を伸ばして、さらさらと指から滑り落ちる髪を梳いた。
それでも穏やかな寝息は揺らぐことはない。
今の彼にはからかいめいた笑みも落ち着きはらった態度もなく、走ることへのひたむきさも見られない。
何をも求めることがなく、何からも奪われることもない。
ただ無防備にそこにあるだけ。
こんな彼の姿を知るものはごく少数だ。
そして、いっそ他の誰も知らなくてもいいと思う。
これは自分のものだから。
「……何を見ている?」
「ああ、おつかれ。大昔の基本計画だよ」
「その延伸は」
「わかってるって。見てただけ」
「そうか」
「大宮からは結局君のところの区間だし。僕のための用地だったって言われても今更だけどね」
「……」
「まあ今でもぎりぎりのラインだし、輸送量が足りなくなってからどうするかはまたわからないけど」
「ああ」
「とりあえず早くE2全部ちょうだいv」
「こっちが揃ってからだな」
「けち」
「……新車とは言わないんだな」
「当然それも欲しいけどね。僕のところで求められてるのは速度より輸送量だけど、新しいものってやっぱり設備が整っているから」
「そうだな」
「まあ、長野が延びたらまたいろいろ取られちゃうんだろうけど」
――君の所にも。
「上越」
「なに」
「なるべく本数は減らさないようにする」
「いちいち言わなくていいよ」
「俺にお前の仕事はできない。……いや他の誰にも、だ。それはおまえのものだろう」
「……」
「本当に必要とされている物など奪うことはできない」
必要とされて生まれてきた自分たち。
高速鉄道として走る予定のその場所におりたったとき、初めて視界に入ったものは地元の期待を背負って走るまっすぐな姿だった。
誇り高く、凛とした姿勢に一瞬で目を奪われた。
そしてその瞬間他の何も、自分の目には映らなかった。
「必要とされている分は必ず残す」
それが。それだけが自分にとって重要なのだと本能が判断したのだろう。
だから、――だから?
「おまえはそのままでいい」
そのままのおまえがいい。
うばいたいんじゃない
まもりたい
「そのまま、ね。……まあこの先延伸なんてない僕には、現状維持がせいいっぱいですけど?」
「そう言う意味じゃない」
「そう言ってるじゃないか」
「言っていない」
「言ってるよ。変なところでしつこいよね、君って」
「おまえが――いや」
「なに?」
「……」
「自分の言葉が足りないってわかってるのに出し惜しみするのはどうかと思うんだけど」
「そうだな」
だが。
「言ってもいいのか?」
「――どういう意味?」
「嫌がらせたくはない」
「そうやって思わせぶりな方が気にかかる――って何この手」
「逃げるなよ」
「誰がっ」
きっと睨みつけてくるが、その眼が怒りよりも怯えに彩られているのは気のせいか。
掴んだ手に力を込めれば、痛みのためか眉間のしわが深くなった。
「いつも肝心なところで逃げられる」
「そう思うならさっさと言えば」
「俺から逃げるな」
「逃げてない」
「このさきずっと」
「なんで僕が君から逃げなきゃいけないんだよ。意味がわからないんだけど」
「おまえは俺のものだ」
「――え?」
丸くなった目が次に映す色を見たくなくて。
自分の狂気が彼の目に映されるその前に。
自分から遠ざかろうとする体を抱き込んだ。
こわがらないで
「ちょっと、や、」
「逃げないといった」
「逃げてないけど逃げないとは言ってない! 放せ!」
「放したら逃げるだろう」
「逃げるんじゃない。戦略的撤退」
「そうか。では放さない」
「意味わからないよ!」
「俺のものだと言った」
「だから!」
なぜそうなるのかと怒鳴る上越の表情は抱きこんでいるために見えない。
けれど、きっといつもの余裕などかけらもなく瞳を揺らがせているのだろう。
言葉は反射的に口を衝いて出ているだけで、そこには思考などかけらもないに違いない。
それを見られないのは残念なことだ。
すべてを。彼が放つすべての物を見ていたいのに。
「僕は誰かの物なんかじゃない」
「おれのものではない、と?」
「当たり前だ!」
「新潟の、地元の物だと?」
「……とうほく?」
くっ、と場違いだろう笑みを浮かべる自分に気付いたのだろう、上越の声色が変わる。
最初は怪訝そうに。
そして、知っているはずのものが、実は虚像であったのだと。
気付いた未知への怯えを徐々に滲ませて。
「おまえがいなければ、あの街に行くことも出ることもできなくなるな」
「なに――?」
「雪に埋もれて交通網はズタズタだ」
「そう、だよ。だからぼくは」
「だからおまえは地元しか見ない、か?」
「……何言ってるの?」
それならどうすればこちらを見る?
どうしたら すきになってくれる?
「……僕たちは地元の期待を背負って生まれた、それに応えるのは当たり前じゃない?」
「ああ」
「誰のものとかじゃなくて、それが僕らが走る理由だろう?」
「そうだな」
「じゃあ」
「俺はまだ準急で東京にもたどり着いていなかったが、あの年の日本海側の話は良く覚えている」
「……あの年?」
「道路も線路も分断された」
文字通り町全体が雪に覆われたあの年。
多くの被害が出た。それは今でも語り継がれるほど。
救援物資を運ぼうにもその路線自体が雪に閉ざされた。
閉ざされた場所を開くためのその列車さえも雪に埋もれて。
膨大な人の手よりも降り続く雪の方がはるかに多く。
孤立する町。孤立する人々。
命をつなぐために。けっして途切れることのない路線は彼の地元の悲願だったろう。
そうして望まれてきた、その彼はしかし。
「生まれたばかりの『とき』も」
「走れなかったよ!」
全線電化して、地元と首都圏を結ぶ特急としてやっとの思いで走りだしたのに。
どんなに走りたくても、半月以上もの間走れずに何もできず回復を待つしかなかったあの時。
自然の驚異の前にただ、立ち尽くすしかなかった。
「だけど今は走れる。走れるから…!」
必要とされる、その思いに応えられるから。
「この場所は僕のものだ」
――誰にも邪魔させはしない。
たとえ、それが自分を慕ってくれる後輩であっても。共に生まれた己の片割れであっても。
自分を奪わせはしない。
凛とした宣言に、思わず頬がほころぶ。
そう。自分が惹かれたものはここにある。
「だいじょうぶだ」
「……」
「おまえはそのままで」
そう。愛しい地元を。そのままその場所だけを見て。
こちらを見ないのならばそれでもいい。その場所以外に目を向けないで。
「その場所は俺も守る」
守るから、失わせないから。俺ならば守れるから。
「――うん」
そして。そのままそこにいて。
そうすれば。
「『とき』」
「……うん、ありがとう」
すべて自分のものだ。
つかってはいけないまほうを つかった
さらりさらり。
指を滑る感触が心地よく、同じ動作を繰り返してしまう。
いつまでこうしていても、飽きることはなさそうだ。
しかし、相手の震える睫毛にさすがにその手を止めた。
「……ん」
「起こしたか?」
「……ううん。気持ちいい」
「そうか」
おっとりと返される声も表情もその言葉通り柔らかい。
ならばやはり遠慮なく触らせてもらおう。
そうしてさらりとこぼれる素直な髪を堪能していれば、うっすらと開いていた目が再び緩やかに閉じる。
「時間、は?」
「大丈夫だ。まだ寝ていればいい」
「きみは?」
「ああ、俺ももう少し休む」
「うん。ありがとう」
穏やかに微笑む姿は完全に自分を信頼しきったもの。
きっと今ならこの首に手をかけたところで、何の抵抗もないだろう。
そっと白い喉元に手を当てれば、どくどくと命の流れる感触が伝わる。
この手の中に、彼の命がある。
「――『やまびこ』?」
「なんでもない」
しかし。
はたして自分が欲しかったのはそんなものだったのだろうか?
ほしかったのは
これじゃない
「よお」
「……」
振り向けばそこにいたのは所属は違えど同じ高速鉄道の一員。
ひらりと手を振る姿はいつもの彼と変わらないのに、飄々とした態度の裏にあるものに気付いて、東北はわずかに眉をひそめた。
「何が言いたいのかわかってるって顔だな」
「……今日は新潟だ」
「ああ。長野が先輩の分も頑張ります、って張り切ってたぜ」
「そうか」
「待てって」
腕を取られ、反射的に振り払う。
その勢いに山陽も目を丸くしていたが、東北自身も自分の行動に驚いていた。
ただ腕をとられただけなのに。それも特に強い力でもなく、拘束するようなものでもない、ただの日常的な動作の一つであったのに。
この腕を彼でない誰かに触られたことに、怖気が走った。
「……すまない」
「いや。大丈夫か?」
「大事はない」
「本当だな?」
「ああ。運行に支障はない。あれも特におかしなことはない」
あれ、と名を呼ばなかったことにか山陽は視線を固くしたが、それ以上東北は何も言う気はなかった。
業務へと戻るために踵を返す。最終で自分も新潟に、彼の元へ行くのだ。予定の何一つ狂わせるわけにはいかない。
これは、自分たちだけの問題だ。あれは自分のものだ。
たとえ、誰が引き離そうとしても関係ない。
もしかみさまがいるというのならば、自分たちを二つの存在とした己を呪うがいい。
運命なのだとしても、逆らおう。
それこそ、彼と共にあることが自分の道なのだから。
曲がり角へ消えた背を見送って、山陽は払われた手をぎゅっと握る。
感じられたのは、彼らの世界へ入ろうとする者への強い拒否反応。
歪んだ世界はすでに完結しようとしているのか。
そこに介入しようにも、きっと今何をしようと扉は固く閉ざされるばかりだ。
そして、彼らはつぶされる。
「おれは、おまえ『ら』が心配なんだけどな」
幸せになってほしい。
たとえお互いしか見えていなくても、彼らにそう思われていなくとも、山陽にとってはかわいい弟たちなのだ。
せめて、ここに彼らの味方がいるのだと、気付ける日が来ればいいと願った。

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