「おまえは手をつなぎたい相手でもいるのか?」
それは東北にとって思ってもみない問いかけだった。
手をつなぎたい、と今の話から自分はそう考えたのか? だから手を見ていたのだと?
再び東北は自分の手を見つめる。がっしりとした大人の手だ。自分の思う通りに動かせる手だ。本当にそれを望むのならば、誰かと手をつなぐことも手を取り合うこともできるだろう。しかし。
「東北?」
首をかしげて考えてみても、山陽からの問いに答えは出なかった。
「……どうだろう」
はたして自分はそんなものを望んでいるのだろうか。
まるで幼い子供のような仕草をする東北に、山陽はなあ、と呼びかけた。
「おまえ、どうするの?」
それは今までとは違う静かな表情で。問いかけられた東北は何が言いたいのかと表情を固くした。
「どう、とは?」
「その手をつなぐ相手」
「……意味がわからないのだが」
本当は山陽が何を言いたいのかわかったような気もしていたが、それでも素直に答える気にもならずに惚けてみせる。
おおっぴらにしているわけでもないが、さりとて隠し立てしているというわけでもない。聡いこの同僚ならばとうに気付いているのだろう。だがなぜ今それを問うのか。東北には不思議でならなかった。
おそらく山陽がほのめかすものは、東北の心に常にわだかまっていることだろう。
もうあれからどのくらいたつのか。決して短くはない時間を東北と彼は不安定な状態ですごしている。きっと傍から見れば不思議なほど奇妙なバランスで。それでもそれは自分たちの中だけで完結していて、周囲には特別な影響を与えるものではなかったはずだ。だからこそ今まで何も口出ししてこなかったのではないのか? それなのになぜ今更それを口にするのだろう。
そんな東北の疑念にも気づいているのだろう。どこか困ったように肩をすくめた山陽は、自分の椅子から立ち上がると眉を寄せる同僚の傍まで歩み寄った。書類の積まれた机に軽く体重をかけるようにもたれかかり、その持ち主を見下ろしながらその肩に手を置く。
そしてかけられた言葉に東北は驚いた。
「まあ俺が言うことじゃないかもしれないけどな、最近ますますおまえらおかしいから」
そんなふうに見えるのか。まったく、自分のこととなるとわからないものだと唇をかむ。
ますます。というからには以前からおかしいと思われていたわけだろう。そして何も言わなかったのはこちらを尊重していたのに違いない。確かにもういい年齢をした同僚同士の関係にあれこれ口出しをするのも奇妙な話だ。ただ成り行きを見守っていた山陽の立場もわからないではない。
そして。そんな山陽が口を出さずにはいられないほど、今の自分たちは不穏な状態に見えるのだろう。
「……何か差し障りが出ているか?」
「いや。今のところは何も。山形や秋田は気にしてるみたいだけどな」
「そうか」
業務に支障が出ているというのならばすぐに対処しなければならないが、そういうわけではないらしい。もっとも同僚に気にされていると知れば、それこそ彼の――上越の性格ならばさらに自分の周りに張り巡らせる壁を強固なものにするだけだろう。自分の柔らかい部分を隠し、誰も近寄らせることはない。それはどんな意味でも決して良いことではない。そうなる前に何らかの手を打っておかなければならないのは確かだった。
生真面目に考える東北に、雰囲気を和らげさせようというのか、山陽は茶化すように笑って見せる。
「別に、大丈夫っていうならそれでいいんだぞ」
「……」
大丈夫か、と問いかけられたのならばそれは到底肯定しがたいことのように東北には思われた。きっと今いるのは薄氷の上。微妙なバランスで成り立っているこの関係は、おそらく一度ひびが入ればそれきりだ。修復などできるわけがない。そしてだからこそ自分はどこへも踏み出せずにいる。本当は、このままではいけないことなどとうの昔からわかりきっているのに。
だが、大丈夫ではないとは同僚の手前、というよりも彼のプライドのためには絶対に口にしてはいけないことだった。あれは自分の弱みを人に見せることを決して是とはしない。そのためならおそらく自分の心まで偽ってしまうほどに。もし同じことを問われれば、彼は自分が傷ついていることなど決して認めもせずに強がってみせるだろう。そしてそれを自分の真実として、自分自身さえ騙そうとする。そんなことを彼にさせたくはなかったし、させるつもりもなかった。
「やっぱり大丈夫じゃないか? それともわからない?」
山陽にそんな気がないのだとわかっていても、東北はその言葉に咎められているような気がした。そう感じてしまうのは、やはり自分の中にそうされても仕方がないと思えるものがあるからなのかもしれない。
こうなる前に他にやりようがなかったのかと問われれば、あったかもしれないと答えるだろう。
だがたとえあの時の自分の選択が正しいものでなかったとしても、今の状況が望まないものだったとしても、あの時の東北にはそれしか選べなかった。他を選ぶなんて思いつきもしなかった。
それでも。
「わからないわけでもない……ただ」
これからどうしたいか、というならば。
「俺は、こうなりたかったわけじゃない、と思う」
東北にしては珍しいほど歯切れの悪い言い草に、山陽は表情をすっと消した。
それに気づいてはいたものの、東北はただ問われたことを反芻していた。
そう。自分さえあの時別の選択をしていれば今の状態はなかったのだ。あのときは今の、お互いの距離を探り合うような関係など、考えもしなかった。そんなものを望んでもいなかった。ただ、彼は自分の傍にいるのが当然だと思ったに過ぎなかったのに。
それがどんなに難しいことかなんて、そのときはわからなかったのだ。
そして、今はどうしていいのかわからずにいる。
「そっか」
頭上で聞こえた声に顔を上げれば、はっきりとしない答えに怒るか、もしくは注意を促してくるかと思った同僚は、しかし不思議なほど穏やかな笑顔を浮かべていた。
「おまえは間違ったって思ってるわけだ」
「……」
どう否定しても結局はそういうことなのだろう。
少なくとも正しかったわけがない。支え合うでもなく、深いところに踏み込むでもない。それでも身体だけは離さないようなこんな関係など、続けていいわけがない。それから目をそらし続けていたのは、それでも離せなかったからだ。こうして突きつけられてようやく向き合えば自分がどれだけずるいのかと自嘲するしかない。
返す言葉もない東北に、山陽は不思議なほど穏やかに問う。
「後悔しているのか?」
その言葉には苦笑しかでなかった。
――後悔なんてそんなもの
あれからずっとしている。

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